日本は対外的に農業の特性を主張する際、「農業の多面的機能」ということを言います。これは「農業には単に食料を生産するだけじゃなくて、それ以外にも国土保全、水源涵養、環境保全、良好な景観、文化の伝承といった価値・機能があって、純粋に生産物の価格だけですべてを判断することはできない、まあ、そんな感じのことです。


 結構、この「農業の多面的機能」は日本の農業関係者の間では人口に膾炙した考え方になっていて、農林水産省や地方自治体のウェブサイトを見ているとすぐに見つけることができます。多分、農林水産省が旗を振ったのでしょうが、その周知は非常に上手く行っているように思えます。


 この「農業の多面的機能」を発揮させていくことはとても良いことです。特に日本は中山間地域が多い国なので、農業をやっていることでダム効果を果たしていますし、農業をやっていないとどんどん荒廃していく土地はたくさんあります。そういうことで農業が生み出す価値というのは、単に農産物の価格だけでなく、目に見えない外部経済によって生み出される付随的価値があるわけです。大平原で農業をやってるアメリカや中山間地域での農業がそれ程メジャーではない欧州ではなかなか理解されない考え方ですが、日本ではこの農業の多面的機能というのは大切にされて然るべきです。


 ただ、この農業の多面的機能は対外的にはあまり評判がよくありません。「単なる保護主義の裏返しなんだろ」ということです。オーストラリアなんかはあからさまに「多面的機能イコール保護主義だ。美しい言葉に騙されちゃあいけない。」と言います。実はこれは一面の真理をついていると、私も思います。ただ、誤解を招いてはいけないので正確に説明します。ちょっと難解かもしれません。


 経済学で言うと、こういう農業の多面的機能は「市場の失敗」と位置付けられます。市場の中で顕在化させることのできない価値があって、それを無視して考えると社会全体としての効用が下がるケースです。こういうことを研究していたのが経済学者のピグーという人なのですが、ピグーは市場の失敗を補正するために課税したり、補助金を出したりすることで社会全体の効用を最大化することを提示していました。私も、この農業の多面的機能を生かしていくためには、そこに補助金を投じていくことが最も適当な方策だと思います。


 しかし、日本は「何が農業の多面的機能なのか?」ということを各要素に分解して、そこにピンポイントで補助金を投じていくという政策を講じているわけではありません。WTOの場でもそういう主張をしているわけではありません。本当に農業の多面的機能が重要であるのなら、「水源涵養」、「環境保全」といったかたちで幾つかの要素に分解して、そういう目的で付ける補助金はWTOなどの国際的なルールでも削減する義務はないという方向で主張すればいいのです。それであれば、日本に批判的な国もある程度は納得するでしょう。今は何が農業の多面的機能なのかをルールの上で具体的に分類することなく、何となく大括りで「農業の多面的機能って重要ですよね」というところで寸止めをしているわけです。多分、私が思うに、今は「農業の多面的機能を守る」というお題目の中に入れてWTOのルール上も正当化している補助金の中には、よくよく精査してみると多面的機能の本義から外れるものが紛れ込んでいるのでしょう。だから、多面的機能を個別に分解していく作業は、今の農林水産省が出している補助金のうちの一部が国際的に正当化できなくなるおそれがあるのだと思います。


 ただ、今のドーハラウンド交渉に臨む際、農林水産省が掲げた一番最初のお題目は「農業の多面的機能」なわけです。本来であれば、この農業の多面的機能を守るためにやるべきことは補助金政策の中で農業の多面的機能を具現化することだと私は思います。どんな経済学者に聞いても、一部の御用学者を除けば、私と同様に考えるでしょう。「今は大括りでボンヤリと纏めているものを個別に分解して精査し始めると、農業の多面的機能というお題目では正当化できないものが出てくるおそれがある」という理由で、経済理論上真っ当なことをやらないという姿勢はあまり理解できません。


 実は農林水産省は(補助金での政策概念形成ではサボっている一方で)こういうふうに主張しているわけです、「農業の多面的機能を発現するためには、農業をやっているという事実が重要なのである。だから外国から農産物が入ってこないように制限することが正当化される」。つまり、輸入を制限するための措置(関税とか)を維持していくことが農業の多面的機能にとって意味のあることなのだということです。これではあまりにあからさまな保護主義と言われますよね。つまりは何でもいいから保護すれば、日本で農業が維持され、それによって多面的機能は活かされるという、何の知恵もヒネリもない主張です。私は日本の農業は守っていかなくてはならないと思っていますが、こういう知恵のない主張が絶対に通らないことも分かっています。農林水産省の主張を突き詰めると、自由化交渉などやる必要は全くないのです。WTOから脱退すればいいんですね。勿論、こういう主張に乗ってくる国は殆どありませんし、ボコボコに批判されています。


 日本の農政や国際貿易を概念的に考える時に、よく使われる「農業の多面的機能」。誤解のないように繰り返しますが、私は多面的機能を維持していくことに大賛成です。しかしながら、私はこれを活かしていくために今、採用されている政策は全く方向性がおかしいと思うのです。本来やるべきこと(補助金政策の中でどう活かしていくかの精緻な検討)を突き詰めることなく、やっても殆ど共感の得られないこと(輸入制限措置の維持の無条件正当化)をひたすらやっているという意味で完全にずれていると思います。少し小難しい専門用語で言うと「多面的機能は国内支持政策の中で検討すべきものであって、市場アクセスの中で検討することはお門違い」ということになります。


 日本の農村地域に行って話をすると、この多面的機能の話は日々の生活に根ざしているため分かりやすく評判もいいです。しかし、それが対外的な政策としてどのように具体化されているかというとお寒い状況なんです。折角の良い考え方なのに、「多面的機能イコール偽装された保護主義」として排除されてしまうのはもったいないといつも思います。