アフガニスタンのザーヒル・シャー元国王が亡くなりました。1914年生まれということですから、93歳くらいだと思います。激動の人生とはこういう人のことを言うのだなと思います。


 ザーヒル・シャーの人生を振り返る前にちょっとだけアフガニスタンという国の歴史を紐解きたいと思います。19世紀のアフガニスタンはずっとイギリスとロシアの競争の場でした。英領インドを抱えるイギリスは、ロシアが南下してアフガニスタンに浸透しようとしていることが脅威だったのですね。イギリスはアフガニスタンを支配しようとして、2回アフガニスタンと戦争を仕掛けますが、激しい抵抗にあって見事に失敗します。ということで、イギリスは直接支配を諦めこの国をロシアに対する緩衝国と仕立てるようにしたわけです。第1次世界大戦後にはイギリスの疲弊に乗じて今度はアフガニスタン側がインドに侵攻して(第3次イギリス・アフガニスタン戦争)、その結果、アフガニスタンは1919年に完全独立となります。この時点で既にザーヒル・シャーは生まれています。


 昔一度書いたような気がしますが、ここでアフガニスタンの地図を見てみると「緩衝国」という言葉がピッタリ来ることが分かります。アフガニスタンの北東部はちょっと不自然なかたちで細い回廊がビヨーンと延びています。ワハン回廊と言います。ここが英露対決のポイントになります。つまり、この回廊をビヨーンと延ばして、アフガニスタンと中国が国境を接するようにしたのです。こうすることでロシアの影響下にある地域(ホーカンド・ハーン国、今のタジキスタンやウズベキスタン)と英領インド(パキスタン)が直接国境を接しないようにしているわけです。ともかく英露が直接対峙することがないように、という知恵なんだろうと思います。ちなみにワハン回廊の地域はパミール高原のど真ん中で5000メートル級の山が聳え立っているだけです。かくして、中国とアフガニスタンは国境を接しているわけです。


 独立を果たしたアマヌッラー国王はちょっと西欧かぶれっぽいところがあったみたいで急激な社会改革と経済開発をやったのですが、宗教家や部族民などの保守派の反対に遭っています。1929年にはタジク人のハビブッラー(バッチャ・エ・サカオと呼ばれていた)が蜂起して国王は亡命させられます。ただ、バッチャ・エ・サカオがアフガニスタンを支配することができたのは1年にも満たない期間でした。私がいつも思うのは、あの国は主要部族のパシュトゥーン人以外の民族が支配しても上手く行かないのです。日本にはアフガン戦争時代、対ソ戦争の闘志アフメド・シャー・マスード(タジク人)を過度に持ち上げる傾向があり、彼がアフガンの指導者となることを期待するかのような言論が一部にあったのですが、そもそもが間違っているように思います。どんなに転んでも、アフガニスタンでパシュトゥーン人以外の部族が支配層になることはないし、そういう試みは必ず失敗します。


 その後、短期間ナーディル・シャーの治世の後、1933年にナーディル・シャーの息子のザーヒル・シャーが国王になります。1933年と言えば、日本はまだ満州国をめぐって国際連盟で激しく議論している時代ですからね。ザーヒル・シャーは即位後、あまり政治に強いコミットをした気配がありません。文化人っぽい人だったんだろうなと思います。19歳で国王になってからも、摂政的な役割を果たす親族がずっと首相を務めています。この頃は非同盟中立の立場から米ソ双方から援助を受けていたのですが、1950年代の首相ダウードはソ連よりで西側諸国に近いパキスタンに強硬態度でした。アフガニスタンとパキスタンの国境地域というのは今でも中央政府が手がつけられない地域なのですが、当時からこの地の領有をめぐっては対立が激しかったんです。一度、1961年には国交断絶・国境閉鎖をしています。これでパキスタン経由の西側諸国との貿易がダメになって、アフガニスタンはソ連依存を強めています。ソ連からダウードに相当の圧力があったでしょう。


 1960年代くらいからずっとアフガニスタンは不安定な時期を過ごしています。しかし、ザ-ヒル・シャーというのはある意味開明的な君主なのですが、結局力がないので国を纏められなかったのです。その後、ソ連にガンガン手を突っ込まれるようになった種はこの時期に撒かれています。学生運動、労働組合によるストライキ、政治団体による言論活動・・・、確証はないのでしょうが大体がソ連の影響下で行われていますね。「ハルク(人民)」とかいった概念が非常に強く語られ始めています。


 あまり歴史を長く説明しても仕方がないので省略しますが、73年にザーヒル・シャーが目の治療か何かでイタリア滞在中、ダウードは青年将校らに担がれて、王制廃止を宣言して共和制をしき大統領就任を宣言した際、ザーヒル・シャーはイタリアから退位の書簡を送っています。それ以来、ずっとイタリアに滞在していました。ほぼ完璧な無血クーデターでした。抵抗したくてもしようがないくらい力がなかったのです。その後のアフガニスタンはどんどん転落の道を歩んでます。少しあの国の歴史に精通した人なら、ダウード→タラキー→アミン→(ソ連進駐で)カルマル→ナジブッラーと指導者が変遷していくのを御存知だと思いますが、まあ、どう見ても小人物同士がくだらん争いをしたようにしか見えません。色々と本を読んでみても「君達はアホか?」と思いたくなるレベルの争いをやっているんですね。その結果、ソ連が侵攻していく道を辿ったということだと思っています。ただ、私は今でも疑問があります、「ソ連は何故こんな資源もない、脅威を与えるわけでもない国にあんなに長々と介入したのだろうか?」ということです。色々な分析があることは勿論知っています。私はソ連軍部の狭量な視点に国全体が引っ張られたということなんじゃないかなと思っていますが、それもすべてを説明し得るわけではありません。


 アフガン戦争は色々な視点から分析がされていますが、現代との関係で言うとやはり武装ゲリラ組織、ムジャヒディーンを産んだことが大きいですね。アラブ諸国から見ると、ソ連のアフガン侵攻というのは「無神論者である共産主義者がイスラムの地を支配した」というとてもケシカランことなのです。当時、パキスタンのペシャワールという街が前線基地で、ウサマ・ビン・ラーデンなどもここに終結しています。昔からペシャワールという街は中東のドバイからの便があり、大体そういうのに乗って、中東一円から「共産主義者許さじ」というムジャヒディーンのタマゴがやってきてたんです。昔からペシャワールにはアメリカの総領事館があります。ここはCIAなんかが入り込んでいて、ムジャヒディーンに武器やカネを渡す拠点でした。1986年には何とあのスティンガー・ミサイルまで渡しています。航空機に向けて撃つと、何処までも追っかけていくあのミサイルです。相当アメリカ議会でも議論になったのですが、最終的には渡しました。今でもスティンガーは残っていると言われています。20年も経って使えるんかいなと思わなくはないですが・・・。


 88年にソ連がアフガン撤退を決め、89年には完全撤退するのですが、その時ザーヒル・シャーにはお声が掛かりませんでした。人気がなかったのか、取り巻きがアホだったのか、本人にその気がなかったのか、何とも分かりませんが、多分人気がなかったのだろうと見ています。その後、ナジブッラーは1992年に退陣、ムジャヒディーンによる群雄割拠になります。そしてタリバーンの登場になります。また、近いうちに書きますが、タリバーンというのは当時はとても持て囃されたんです。群雄割拠で自分の利益ばかりを追求して治安が悪化するばかりのムジャヒディーンに比すれば、治安を完全に回復したタリバーンに対する評価はあってもいいような気がします。


 結局、ザーヒル・シャーに最終的にお声が掛かるのは9.11以降です。それまでも、タリバーンに対抗する観点から在外アフガン人を統合して、タリバーンに対抗する勢力たらしめようとやったのですがダメでしたね。ザーヒル・シャーの周囲にいた人間は使えない人が多かったです。タリバーンが潰れた後、ザーヒル・シャー自身、少し政治的な役割を果たしたいと思った節がありますが結局ダメでした。高齢だったということもあるのでしょう。国内に戻りましたが象徴的な役割以外は与えてもらえませんでした。まあ、最期をお国で迎えることができたのは幸せとすべきかもしれません。エジプトで死んだイランのモハンマド・レザー・パフレヴィーなどなど、亡命者がお国に戻れないケースの方が多いわけですからね。


 ただ、私が思うのは、アフガニスタンの悲劇の一つに国王が弱かったことがあると思います。元々がパシュトゥーン系(東部)、ウズベク系(北部)、タジク系(北東部)、モンゴル系(ハザラ人、中部)といった多様な人種が入り乱れている中にあっては国民統合の象徴が必要なのだろうと思います。今のハミード・カルザイ大統領は既にカブール市長以下の権限しかもっておらず、国父とは言えません。アメリカのボディーガードがいなくなれば、数日後に暗殺されるでしょう。「たら」「れば」になりますが、歴史の一点においてザーヒル・シャーが国王として再度国民統合の象徴になり得るチャンスはなかっただろうかと考えることがあります。1989年(ソ連撤退)、1992年(共産政権崩壊)・・・、必ず成功したとは言えないのですが、チャレンジするだけの価値はあっただろうと思うわけです。そして、今、完全に分裂国家、破綻国家となってしまったアフガニスタン、国民統合の象徴を何処に見出すことができるだろうかと自問します。ザーヒル・シャーの息子はあまり出来が良くありませんし、国内を離れすぎですから可能性がありません。そう考えると、タリバーンというのはイスラム的価値観を統合の象徴にしようとしたのかもしれません。やり方は良くありませんでしたが、その考え方自体は分からないではありません(少しタリバーンに甘い評価ですかね)。


 雑駁なことをあれこれと書きました。ザーヒル・シャーは日本に来たことがあります。たしか、1960年代後半に国賓で来ています。そして、答礼として今の天皇陛下が皇太子時代にアフガニスタンを訪問しています。また、歴史の語り部が1人亡くなり、ちょっと感傷的な気分になりました。