トゥアレグ族と言われる民族がサハラ砂漠全域に亘って居ます。典型的な「砂漠の民」なんですが、顔つきはちょっとアフリカ系とは違うような気がします。何と言えばいいのか難しいのですが、顔つきがとても精悍でハンサム・美人系の顔 なんです。有識者によっては「昔、コーカサス(カスピ海沿岸)から来たのではないか」という人もいます。私にはよく分かりませんが、顔だけを見ていると「さもありなん」という感じです。


 このトゥアレグ族、ニジェール、マリ、アルジェリア、ブルキナ・ファソ、リビアあたりに住んでいます。イメージ的にはパリ・ダカール・ラリーで最難関地と言われ放映される地域です。基本的には砂漠なのですが、サハラ砂漠の中には山脈とでも呼ぶべき地域が結構あります。マリの奥地にあるイフォラ山脈(Adrar des Iforas)やニジェールのテネレ砂漠の奥にも山がちな地域があります。この前、アルジェリア人と話していたら「(トゥアレグ族の街である)タマンラセットは砂漠が綺麗だぞ。来い、案内してやるから。」と言われました。ちょっと無理ではありますが、死ぬ前には行ってみたい場所の一つです。まあ、トゥアレグ族というのはそういう広範な地域にすんでいます。そして、生活形態はアメノカルという部族長による統治によるものになります。


 そして、どの国でも分離独立武装運動をやっていました。理由は簡単なのです。昔はフランスの植民地だったところを、1960年前後に相当程度恣意的に国境線を引いてしまったので、砂漠の民トゥアレグ族は国を持たないまま分裂してしまったわけです。何処の国でもトゥアレグ族は少数民族でえてして虐げられているケースが大半です。私はマリの首都バマコに10回以上行ったことがありますが、街中では精悍な顔をしたトゥアレグ族が物乞いをしているのを頻繁に見ました。ただ、(あまり揶揄するつもりはないのですが)彼らはプライドが高いので精悍な顔で威風堂々と物乞いをやっているため、あまり集まりは良くなさそうでした。そういう中、トゥアレグ族は小型の銃器を持って中央政府に反乱を起こしていたわけです。


 後背地をサハラ砂漠にした民族が激しく反乱活動を起こすのですから、それはそれは鎮圧するのに混乱していました。マリでは(クーデター直後の)1992年、ニジェールでは1995年くらいに和平協定が締結されました。私はこの後の両国の政策に「これは良いかも」と思ったものがありました。それは両国ともトゥアレグ族から1名大臣を出させたのですね。私がマリに行っていた時期は環境大臣がトゥアレグ族でした。ニジェールでは和平協定後はアグ・ブーラ(Rhissa Ag-boula)というトゥアレグ族の部族長がかなり長く観光大臣として入閣していました。


(注:あまり役に立たない知識ですが、トゥアレグ族の名前にはすべからくアグ(Ag)が付きます。意味はよく分からないのですが、多分アラビア語で親子関係を示す時に使う「ビン」「イブン」くらいに当たるのかなと勝手に推測しています。外国で「Ag」という標記を含む名前を見たら、「ああ、こやつはトゥアレグ族だな」と思ってください。そんな機会はないでしょうが・・・。)


 私はこういう知恵は大切だと思います。国の中に部族がたくさんあって、使っている言葉も違い、それぞれ反目しあってコミュニケーションが成立していない中では、そのコミュニケーションの場を提供してあげることが重要です。国の最高意思決定機関である内閣がそのコミュニケーションの場であれば、それは良いことでしょう。少なくとも自分の部族の代表が、国政の意思決定の場できちんと発言できる機会を持っていることは安心材料です。


 当時、ニジェールではアグ・ブーラ観光大臣を盛り立てる幾つかのプロジェクトも行われていました。有名だったのは、アフリカ出身のデザイナー、アルファディがニジェールのアガデズで催した一大ファッション・ショー「FIMA」でした。トゥアレグ族を前面に立てるかたちでのファッション・ショー、なかなかのセンスです。記憶が定かではありませんが日本人の有名デザイナーも参加していました。


 ニジェールでは1999年に真相が闇のクーデターが起こり、当時のマイナサーラ大統領が殺害されたのですが、その際一番心配されたのはトゥアレグ族がこれに乗じて武装蜂起するのでは?ということでした。多分、アグ・ブーラ観光相がこれを止めたのではないかと私は見ています。ただ、残念なことに、その後アグ・ブーラ観光相は殺人事件で起訴されて、ニジェールの内閣から去りました。たしか、一時期、ニジェールの内閣にトゥアレグ族はいませんでした(今はいるようですが)。やっぱり取り込みは上手く行ってはいないようで、現在、トゥアレグ族はニジェールで不穏な動きをしています。


 マリでもトゥアレグ族取り込みは行われていました。一時期は首相がトゥアレグ族でした。どうでもいいことですが、私のマリ政府での宿敵もトゥアレグ人で、いつも激しく口論していました。ただ、あの国で一番特筆されるのは小型武器への対応です。よく軍縮というと「ミサイル」とか「核」とかを連想しますが、普通に考えると一番身近な殺傷武器は持ち運びが簡単で打つのも簡単な銃です。一番有名な小型武器はカラシニコフでしょう。あれは照準とかの性能は少し下がるようですが、どんな環境でも使えるという利点があります。砂がどんどん入ってくる地域でも難なく発砲できるそうです。しかも解体が簡単で作りやすいそうです。昔、パキスタンに行った時には家内制手工業で「母ちゃんが夜なべをしながら(かどうかは分かりませんが)」カラシニコフを作っているのを見ました。10ドルくらいで売っているそうです(値段が下がると照準も下がるそうですけど)。


 何処から手に入れたのか、トゥアレグ族もカラシニコフで反乱していたのですが、1996年にこれを放棄しようじゃないかということでマリ政府とトゥアレグ族で合意に達して、世界遺産でもあるトンブクトゥーで「平和の火(flamme de la paix)」という盛大なセレモニーをやりました。これは何かというと、トゥアレグ族の持っていた小型武器を集めて、サハラ砂漠とブラック・アフリカ(この言葉に差別的な意図は一切ありません)の出会う歴史的な街トンブクトゥーで盛大に燃やしてしまったわけです。そして、その後はトゥアレグ族武装勢力を正規軍に統合するなどの取組がなされていました。


 今では小型武器の問題というのは国連でも取り上げられていて、日本もかなり力を入れているのですが、私が知る限り、マリの「平和の火」ほど上手く小型武器の問題にケリをつけたケースは他にないでしょう。小型武器は便利ですので、単に「廃棄するから出しなさい」と言っても武装勢力はおいそれとは出しません。お互いに信頼関係がないとまず無理ですね。そして、小型武器を放棄した後の生活や身分の保障がある程度ないとダメです。そういう意味で総合的な対策を講じない限り成功しない取組なのです。今だとアフガニスタンとかが思い浮かびますね。あの国で小型武器対策に成功したら、それこそノーベル平和賞もんだなといつも思っています。


 トゥアレグ族、日本で聞くことはまずないでしょう。知っていても知らなくても、日本外交にとっては殆ど影響がありません。外務省の中でも誰も関心を示してくれなかったので、偏屈な私はずっとこそこそとウォッチャーをやっていました。