先日、アルジェリアのティンドゥーフ(Tindouf)という街から来た人と会いました。北九州に国際協力機構(JICA)の研修所があるのですが、JICAの研修で来た方でした。そのアルジェリア人と西サハラネタで超盛り上がってしまいました。ただ、普通の方はティンドゥーフと言っても場所が何処にあるか分かる方はいないと思います。西サハラの亡命政府があるところなのですが、そもそも西サハラ自体が知られていません。そして、これから書くことも超オタクな話なので、あまり面白くないかもしれません。10年来の密かな西サハラウォッチャーとしての備忘録っぽいところがあります。

 

 モーリタニアの北、モロッコの南西、アルジェリアとは国境を接しているような接していないような、まあそんな地域です。面積的には結構広いですが大半は砂漠なので住めません。人種的にはベルベル人だと思います。ちなみに世界史で勉強した方もいると思いますが、ベルベル人というのはローマ帝国時代に「訳のわからない言葉を話す人」という意味から付けられたもので「バーバリアン(未開人)」という言葉で現代英語にも引き継がれています。まあ、アラブ人よりも昔から北アフリカ地域に住んでいた人達ですね。

 

 元々こういう地域で、現在の国民国家制度を前提に考えること自体がおかしいわけで、歴史的にはずっと多くの部族によってオアシスを中心に支配が行われていたわけです。世界史上はムラービト朝という名前のイスラム王朝が支配していたのがこの西サハラ地域に当たります。その後もイスラム王朝が幾つか続きました。基本的にはモロッコの影響が強かったのですが、あまり住める地域でもないのでどちらかというとほったらかしにされていたのが実態でしょう。転換期になるのは1884年にアフリカ分割を決めたベルリン条約です。この時スペインの支配下に入ります。

 

 スペイン支配時代は反乱とか暴動とかが多く、あまり安定していなかったようです。モロッコの支援も得ながら、西サハラは相当にスペイン植民勢力を脅かしたみたいですね。1975年にスペインは西サハラへの支配権をようやく放棄するのですが、その時にモロッコとモーリタニアが主権を主張しました。当時、モロッコは「西サハラに対する主権を認められるだろう」と踏んだのでしょう。国際司法裁判所に見解を求めています。結果は西サハラ人民の独立権を認める判決でした。国連もポリサリオ(西サハラの独立勢力)が独立の中核的勢力をなすと判断しました。まあ、モロッコは西サハラを国際法で無主地(terra nullius)と主張したようなんですね。実際に人が住んでいるところに乗り込んできて、そこは無主地だと主張して支配権を及ぼそうとする・・・、パレスチナの地もそんな感じでしたね。

 

 結局、スペインとモロッコ、モーリタニアで勝手に協定を結んで、2/3をモロッコ、1/3をモーリタニアに分割してしまいました。勿論、ポリサリオは激しく反発して武装闘争に入ります。モロッコは「緑の行進(marche verte)」と銘打って、モロッコ人を西サハラに送り込もうとしたこともありました。モロッコ支配を確立しようとしたのでしょう。逆にモーリタニアは能力不足で、反乱勢力を押さえられずに結局西サハラを諦めてしまいました。この過程で西サハラのモーリタニア側には結構な地雷が埋まっています。日本人でこの地域をバイクで抜ける人多いんですけどね、情報不足で地雷を踏まないかなと気になります。

 

 この地域が複雑なのは、西サハラは一応独立を宣言してSADR(サハラウィ・アラブ民主共和国)という国を宣言していて、それを国家承認している国が結構あることなんです。それを後押ししたのはアルジェリア。当時は冷戦の中で東側に近かったことから、西側に近かったモロッコへの対抗とかも含めて、SARDを後ろで後押ししていたんです。当時の外務大臣が今のブーテフリカ大統領。ブーテフリカが旗を振って、かなりのアフリカの国がSARDを承認したのです。アフリカ統一機構(OAU)憲章の中には「加盟国の半数が国家承認したらメンバーに入れてやろう」という規定があって、SARDはそれを1982年にクリアーして晴れてOAUに入ったのです。民族自決といったテーマにアフリカは弱いですからね。モロッコと関係が薄い中部から南部のアフリカの国が30程度SADRを承認したのです。ただ、その結果としてモロッコはOAUから出て行ってしまいました。それ以来、モロッコはアフリカの国で唯一OAUに入っていません。

 

 これは実は法律上、面白いテーマを含んでいます。実はアフリカ統一機構憲章には「加盟国の過半数が承認したらメンバーに入れてやる」という規定はあるのですが、「過半数を切ったら追放する」という規定はないのです。一時期、アフリカの過半数が承認してくれたSARDでしたけど、その後モロッコからの反転攻勢で、今はたしか20ちょっとくらいじゃないかと思います。ただ「過半数を切ったら追い出す」規定はないので、SARDは今でも正式なアフリカ連合(AU)(OAUが発展的に解消して出来た)のメンバーです。私は一度だけアフリカ統一機構の会合に行ったことがありますが、その時、SARDの外務大臣がロビーを所在なげにウロウロしていたのを覚えています。何をしていたかと言うと、会議場の中には入らず、休憩で出てくるアフリカ各国の外相に「僕を追放しないでね」とお願いするのが唯一のミッションだったわけです。会合で何が話されるかはどうでもよくて、ともかくほぼ唯一の国際的なフォーラムでの正式メンバーの立場を守ることだけが彼のミッションでした。傍で見ていて、ちょっと哀しいものを感じました。

 

 和平を探る道をずっと国連が追求していて、人民投票で西サハラ地域の運命を決めましょうということについてまでは、ポリサリオもモロッコも同意しています。停戦監視のためのPKOであるMINURSOも出ています。ただ、この人民投票のアイデア、最初に出てきてから16年になるんですが全然実現する見通しが立ちません。日本ではちょっと想定しがたいのですが、ああいう砂漠ばっかりの国では投票と言ってもまずは「誰が投票するのか」という選挙人名簿を確定しないことには始まりません。しかし、ここでモロッコがどんどん自国の民を西サハラに送り込んでは「これは投票権のある人間だ」と主張しているため、選挙人名簿について確定できないのです。かつてのアメリカの国務長官だったジェームズ・ベーカーが西サハラ問題の国連特使でしたが、結局は匙を投げてしまいました。ちょっと今は投票をするモメンタムが下がりまくってます。

 

 数年前まではモロッコの国王は強権なハッサン2世だったので、「こりゃ無理だな。譲歩は見込めん。」と思いつつも、「けど、ハッサン2世の次はちょっと変わるかも」という期待感もありました。しかし、次の国王モハメド6世もやっぱり固いですね。そして、ポリサリオを支援しつづけるアルジェリアは超親SARDのブーテフリカ大統領。まあ、接点ないよな、どうしたら良くなるのかねえと注目しています。

 

 西サハラの住民は難民化していて、その多くが冒頭に出てきたアルジェリアのティンドゥーフに住んでいるというわけです。SARDの大統領も政府もそこにあります。西サハラ内にはアル・アイユーンという首都がありますが、こちらは完全にモロッコの支配の下にあります。

 

 まあ、備忘録的に書き留めておきました。最後に一つ注目しているのが、この地にある地下資源です。元々は燐くらいしか出ない地域で、あえて付け加えれば沿岸をいい暖流が流れていて魚介類で良いのが取れるということくらいだったのですが、どうも石油が出るんじゃないかという話があります。特にオフショアの石油の話は昔からあります。いつ中国が入ってくるかな、もう既に入ってたりして・・・、最近のアフリカのトレンドを見ると「資源があるところなら何処にでも行く」中国、西サハラに関心を持ち始めたら要注意です。そういう発想で見ると、つまらない西サハラ情勢も面白くなるんじゃないかと思うわけです。