以前も書きましたが、憲法9条改正との関係でよく政治家が「集団的自衛権は国際法上権利として持っているのに憲法上行使できないというのはおかしい」と言うことがあります。現総理や外務大臣もそんなことを言っていました。


 この論理は実はとてもおかしいのです。元々憲法で安全保障について議論することは不毛だ、というのが私の意見ですが、それはともかくとして、憲法というのは権力に縛りをかけるものであって、それは国際法とは関係なく、国民の意思の発露なわけです。国際法上認められていても、その範囲内で国民の意思として一定の縛りをかけること自体は当たり前のことです。仮に国際法上認められるすべての権利は当然に認められるべきというのであれば、それは憲法よりも国際法を上位に置くことになります。それは主権国家、国民国家としてあってはならないことだと思います。


 しかも、現在安倍政権が進めていることは「ミサイル防衛等、非常に特定の条件下で集団的自衛権について認めよう」という検討会を設けているわけです。本当に「集団的自衛権は国際法上権利として持っているのに憲法上行使できないというのはおかしい」のであれば、このような検討を行う必要もないわけであって、すべての集団的自衛権を認めればいい、それだけのことです。そうすれば、アフガニスタンで戦う米軍(個別的自衛権の行使と言っている。)がタリバーンに襲われた時に、一緒になってタリバーンにドカスカ打ち込むことができるようになります。しかし、そこまで行くのはさすがに違うだろうという判断が安倍総理や麻生外務大臣にもあるので、やっぱり特定の条件下で集団的自衛権が許容されるのかどうかという議論になるわけです。結局、「集団的自衛権は国際法上権利として持っているのに憲法上行使できないというのはおかしい」と完全に胸を張っていえるような状況ではないのですね。


(ところで、現在、総理の肝いりで集団的自衛権について研究会が進んでいます。もう顔ぶれを見ただけで方向性は明らかです。「結果を予断せずに自由な議論を」なんて塩崎官房長官は言っていましたが、あれは完全にウソです。多分、教育再生会議が「動物園状態」になってしまったので、これに懲りた安倍総理が相当に方向性の明らかな人選をしたということでしょう。ちなみに外務省色が非常に強いです。気持ちは分からないでもないですが、ちょっとやり過ぎじゃないかなという気がしてなりません。)


 私の意見は「個別的、集団的というのは分類上設けた区分に過ぎない。あまり捕われないほうがいい。むしろ、自衛権という大きなくくりの中で本当に日本が自国を守るため、国際社会に正しく貢献していくために必要なものは何かということを虚心坦懐に議論したらいい。その中には個別的自衛権もあるだろうし、集団的自衛権であっても日本を守るために必要なものがあるかもしれない。その議論の結果を国民の意思として憲法に結実させればいい。」というものです。国連憲章に御丁寧に個別的、集団的という自衛権の区分があるので、日本の議論はそこに引きずられていますが、あれはどちらかというと「これまでの国際法の常識を確認的に規定した」に過ぎないのです(国連憲章にはこれらの権利は「固有の(inherent)」と書いてあることからも、国連憲章によって創設された権利と見ることはできないでしょう。)。「自衛権」は何処まで行っても「自衛権」なのです。その範疇の中で日本は何をすべきかという議論をもう一度やり直したほうが良いように思います。


 その方が国民一人一人にも分かりやすいと思うんですよね。今の集団的自衛権に関する研究会の理屈は、確実に一般国民には理解できないものとなるでしょう(座長が元外務省条約局長ですからねぇ)。ミサイル防衛をするのが今の憲法上許容されるということについての複雑な理屈をあれこれ並べることが今の政治のなすべきことでしょうか。違うと思うのです。今、日本が様々な脅威から身を守るために何が必要なのかともう一度素直に議論するというアプローチでないと、国民的な議論を巻き起こすことはできないと思っています。そこで「必要」と認められたことが仮に現在の内閣法制局の解釈で「集団的自衛権」だということになるとしても(例えばアメリカを標的としたミサイルに対するミサイル防衛)、それだけの理由でミサイル防衛の意義を拒否をするような国民は希少であろうと信じています。


 折角、自衛権のあり方を議論するなら、ゼロから「国の自衛というものの本義」に立ち返ってやってほしいと切に願っています。