最近、教育という問題について考えてみました。特に気になるのが「公教育は何処まで個人の私的生活に入っていくべきなのか。」ということです。このご時世、かつてであれば家や地域社会が担っていた機能を学校にすべて求めるような風潮があります。他人に迷惑をかけてはいけない、静かにすべきところで静かにする、こういった当たり前のことが家庭で教えられてなくて、ともすれば「義務教育なんだから、そういうことは学校でやって下さい。」という親も多々いるそうです(そういう親に限って、その子を叱ると逆ギレして学校に押しかけてくる。)。何処まで学校が担うべきなのか、学校に何処まで求めていいのか、そんなことを思います。


 昔は家庭での教育、地域社会全体で学ぶ教育、そんなものが公教育を補足していました。今はそういうのがとても薄くなってきています。その帰結の尻拭いをすべて公教育に求めるのか、仮に公教育に求めるのであれば、今度は公教育が家庭とか地域社会といった私的生活の分野に立ち入ってくることになります。


 私は教育再生会議の議論が上手く行っていないことの根源に、この辺りについての議論が不足していることがあると思っています。つまり、公教育と私的生活の関係が明確にされないまま、最初に価値観の議論だけが先行してしまった感があります。日本においては、公権力が国民の私的な生活に積極的に介入することに非常に慎重でした。日本の憲法学においては、できるだけ公権力の手の届く範囲を狭め、そして国民一人一人の自由を確保しようとする力が働いてきました。すべての制度が、公権力による私的生活への介入をできるだけ狭めるようにできています(少なくとも制度上は)。ちょっと分野は違いますが、警察の民事不介入という原則を(暴力団対策として)覆すのには非常にエネルギーが必要でした。最近も、虐待されている子供を救うために、本来、公権力として手を出さないことになっている家庭生活に、一定の要件の下で介入(児童相談所等が家庭に入って子供を保護することが)できるようになりましたが、あれも議員立法でかなり力を使いました。これで分かるように、日本の制度はすべからく公権力(公教育を含む)が国民の私的生活に入っていくことには慎重で、その改正にはとてもエネルギーが必要だったわけです。


 もし、この流れを教育の充実のために見直していこうとするなら、まず、教育再生会議はそこから議論しなくてはいけなかったように思います。本来、個人の私的生活への不介入を原則としているところに公教育が入っていくことの重みをあまり理解していない議論が多かったですね。どんどん道徳や徳目を親にも教え込んでいくべきという人もいれば、いやいやそんなことをしちゃいかん、まずは生徒の自主性を尊重すべきという議論まで百花繚乱でした。多くの意見が出ることはいいことですが、議論に少しずつ秩序を持たせることができていなかったことが失敗の原因だったように思います。公教育の私的生活への関与という大前提となる問題をなおざりにして、どういう価値観を刷り込むべきかの議論をしても、結局最後のところで噛み合わないわけです。あまりに現総理が価値観ばかりを前面に押し出しすぎるために、拙速に価値観の議論ばかりが先行してしまい、「そもそもそういう価値観を親や地域社会全体にまで共有するよう求めてもいいのか?」というところでぶつかってしまったわけですね。「親学」なんてのはその典型です。私は「今の教育は親に問題があることから起こっている部分が多い」と思うので「親学」という発想は理解できなくはないのですが、しかし、それを公教育の一環としてあたかも親に「義務」として求めるような発想には違和感を覚えます。「子供は母乳で育てるべき」、私的生活の本当に奥深いところに立ち入るような内容で、多くの人にとっては大きなお世話です。きっと安倍総理の本心を代弁したのだと思いますが、これこそ「そこまで私的生活に公教育の名を借りて立ち入っていいのか」ということを考えさせるテーマです。


 公教育が私的生活に関与するあり方は色々とあると思います。「積極的に関与するべき」、「やむを得ない場合にだけ関与すべき」、「一切関与すべきでない」、まあ人によって意見は分かれます。私は「放っておいたら今以上に状況が悪くなるのなら積極的に介入していい」くらいの非常に中間的な考え方ですが、私の考え方はともかくとして、この問題である程度の方向性が見えてくると後は「では、決まった関与の枠組みの中でどのような内容の教育を誰に対して進めていくのか」という議論に移ることができます。そこでどういう価値観を推し進めて行くのかという議論が可能になります。つまり、「公と私の関係」のところに議論が整理できていれば、議論全体にたがが嵌り、その後の議論が促進されるというわけですね。逆に言うと、今の教育再生会議は完全に「動物園状態」で全く統率が取れていません。これを「人選が悪かった」という人もいますが違うのです。意見が全く異なる人に羅針盤なきままに議論させた政府側に問題があるのです。


 近代社会の歩みというのは、如何に公権力から私的な生活を守るかという闘いの連続でした。その結果、現在の日本国憲法があり、今の日本の社会があるのだと思うのです(ちょっと西欧的な考え方ですが)。教育再生会議ではそのあり方を少し修正していくのだというのであれば、そこからスタートしないと意味がないですね。「親学」、「道徳教育の復活」、その趣旨は理解できるのです。ただ、それを進めるためには、特定の価値観だけを前面に出して猪突猛進するだけでは不十分です。そんなことを感じました。