あまり最近は世間の関心を呼ばなくなりましたが、WTO農業交渉が少しずつ動いています。12年くらい前にはコメの市場開放について盛り上がって、当時の細川内閣が潰れるんじゃないかというくらい盛り上がりましたが、最近は内閣を揺るがすほどのイシューにはなっていません。


 しかし、今、ジュネーブのWTOで起こっていることというのは実は12年前よりも深刻なんじゃないかなという気にさせられます。1993年12月15日に日本は「断腸の思いで苦渋の決断をして」ガット・ウルグアイ・ラウンドの結果を受け入れましたが、結果としてはコメの輸入は裏技を使いながらそんなに伸ばすこともなく、農産品全体の関税削減もそれなりのところで収まったというのが率直なところです(実状は遥かに複雑ですが総論として)。


 こういう農業交渉で日本にとって深刻なのは何処までいっても関税削減や関税割当の世界です。最近出された農業交渉議長のペーパー に少し目を通してみると、もうビックリすることが書いてあります。超テクニカルなので、普通の人にはまず読みこなすことは無理です。あれを正確に理解できるのは、日本に10人くらいしかいないと思います(かくいう私もかつてはほぼすべてを理解できていましたが、今はもう無理です。)。非常に簡単に言うと以下のような感じです。


● 高い関税ほど大きく削減すべし。
● いずれにせよ、関税には上限を決めよう。
● ただ、どうしても関税を一般ルールで下げられない品目については「重要品目(sensitive product)」としてある程度大目に見てあげるが、その対象品目は限定的にすべし。
● 重要品目は関税引き下げを本来のルールよりも緩和してあげる(本来ルールの1/3~2/3程度か)代わり、関税割当(優先的に低関税で輸入する枠みたいなもの)の幅を広げなさい。


 これだけだとよく分からないかもしれません。具体的な数字が入ってくるとより明確になります。上限関税は100%くらいが相場観のようです。議長ペーパーによれば、重要品目の割合は「全体の1~5%程度」ということになっています。それらの品目については、本来今よりも関税水準が例えば75%減(現行関税が400%なら100%まで下げる)になるところを、25%減くらいで多めに見てやろう(現行関税が400%なら300%で歩留まりする)ということです。ただ、日本は関税の高い品目がとても多いので、1~5%程度ではすべての高関税品目を守りきることができないと農林水産省は主張しています。コメと聞くと1品目だと思うでしょうが、コメと言っても色々な種類があります。最近、中国から輸入して美容にいいと言われる「黒米」、あれだってコメの一種です。たしか、コメだけで15品目くらいはカウントされるのではなかったかと思いますので全体の1~5%の相当な部分を占めてしまいます。守りきれない品目については、大幅に下げなくてはなりませんし、大幅に下げても100%を越える関税になる品目には更に上限関税が掛かってしまうため、ガクンと関税が下がってしまいます。

 日本はコメ、小麦、大麦、砂糖などなど、色々と関税の高い品目がありますが、今の農業交渉の流れで行くと幾つかの品目は壊滅してしまうでしょう。特に畑作は完全にやられてしまいます。北海道は今、対オーストラリアFTAができると大変だ!と大問題になっていますが、私に言わせると「そんなことの前にWTOが今のまま進んでいった方が危ない。対オーストラリアFTAは所詮相手が一カ国なのでトコトン粘りきれば何とかなるような気もするが、WTOは多数国間だから押し切られるときは日本vs150ヶ国で戦わなくてはならない局面がでてくる。」ということです。


 畑作モノに比べると鮮度が要求される野菜モノや果物はある程度生き残っていくことができるかもしれませんが、今やスーパーに並ぶ中国産生鮮野菜を見ていると、野菜・果物ですら中国産に席巻される可能性なしとはしません。


 ウルグアイ・ラウンドの時はコメの市場開放だけがクローズ・アップされたためか、非常に大打撃を受けたような感じもありますが、農産品の関税の下げ幅だけを切り離してみると、まあ堪え得るくらいの水準だったように思います(そんなことを言うと農家の方々にこっぴどく叱られますが、あくまでも比較の問題として)。それに比して、今回提示されている農産品の関税引き下げは超過酷です。ウルグアイ・ラウンドの時など比較にならないくらい大変な代物です。しかも、そのアイデアについてはアメリカ、EU、途上国のかなりの国がOKを出しています。何といってもEUがOKを出しているのが痛いです。EUはかつては関税が高かったのですが、関税を下げながら補助金で守っていく、その補助金についても生産を刺激し(て余剰作物を出さ)ないような方向で改革するという政策を進めたため、高関税でやらなきゃいかん品目の数がそんなに多くないのです。


 これからの日本の取るべき道はそんなに多くはありません。まずは超ゴネまくることですね。この手の交渉で日本の良くないのは、都合の悪い案が出てきた時にある程度のところで見切りをつけて、「ここまでならやれる」という案を自分で提示することをしないことです。そして、自分のイニシャル・ポジションに最後まで拘って最後に刀折れ、矢尽き、すべてが瓦解するというパターンです。ゴネるためには、そのゴネが生きるくらいの案を自分から出さないことには誰も聞いてくれません。何の知恵も出さずに自分のイニシャル・ポジションだけを主張し、それで「今の流れは受け入れられない」では単なる融通の全く利かない厄介モノでしかありません。今、松岡農相は議長案に対して「受け入れられない」ばかり言っています。議長からすれば「じゃあ、案を出せ。知恵を出さないヤツに配慮なんか出来るか」という思いがあるはずです。その時にイニシャル・ポジションばかりを主張する、そうやって無視される、これが日本の辿ってきた道でした。


 もう、日本の主張するように「(例外扱いとなる)重要品目」を全体の15%の品目に適用することは無理です。しかし、私の相場観でも1~5%では日本農業の将来は壊滅的です。農水省は全体の15%という主張をする際、どうせのりしろを確保しているはずですからもう少し動けるはずです。まずは政治がイニシァティブをとって、ホンネのホンネでどれくらいの水準が重要品目とならなくてはいけないのかを確定させる必要があります。それを確定させたら、梃子でも絶対に動かないということでいいのではないでしょうか。「これが守れなかったら、今のWTO交渉全体を日本一国がぶっ潰すかたちになっても構わないと思っている」と本当に言い切れる最後のポイントが何処なのか、それが見えてない中で交渉するのはとても辛いと思います。私はそういう「このポイントが確保されないなら、日本一カ国が最後の最後で交渉をブロックし、すべてが頓挫することも厭わない」と言えるだけのものを見出す努力が欠けているように思います。15%は誰が見ても無理筋の数字ですし、米、オーストラリア等も「どうせ、国内向けのポーズでしょ」とたかを括って相手にしていないはずです。


 あと、気になるのが政治の関与が低く、世論の喚起が少ないことです。今、政治でWTO農業交渉に本当に取り組んでいる人がどれくらいいるでしょうか。松岡農相という人は色々問題の多い人ですが、私が知る限りでは「よく勉強し、よく知っている」人ではあります。今の農政では中川自民党政調会長、松岡農相、谷津元農相、保利元文相くらいがこの交渉についてバランスよく精通していたよなという印象がありますが、逆に言うと、それ以外の人はあまり当てにならないのです。安倍総理が農業について語った姿を見たことがありません。塩崎官房長官は「sensitive product」をそのまま「センシティブ品目」と言って、記者に「センシティブって邦訳は何ですか?」と突っ込まれていたことしか記憶にありません。農業議員と言われる人も甚だ見識不十分な方が多いです。最後になって、自分の地元に影響が甚大であることを知ってから騒ぐのはダメですよね。もっともっと政治が現状を知ってほしいよなという気がします。


 そして、世論ですが、せいぜいFTAについて関心が向く程度でWTOなど関係ない世界になっています。私は農林水産省が情報を積極的に出していないことも一因だと思います。今、日本が超ピンチであることを知っている人はいないでしょう。日本各地の農協に勤めている方、更には現場で働く農家の方で「実はWTO農業交渉で日本は超ピンチだ。その影響たるや、コメの市場開放どころじゃない。」と感じている人がどれくらいいるでしょう。甚だ怪しいのです。最近、農林水産省はあまりウェブサイトに情報を出していません。危機感を煽りたくないという思惑なのでしょうか。それはそれで分からなくもないのですが、外交交渉というのはある程度の幅広い国民的なバックアップがないとどうしても現場で力が出ません。超ピンチなら超ピンチでそういう現状をどんどん広報して、それで日本が一丸となって「これ以上譲歩することは日本国民1億3000万人が認めない。それでWTO交渉全体が潰れてもいい。」と言えるだけの世論形成に務めるべきだと思うんですけどね。そう言うと農林水産省は必ず「そんなことをしたら世論はコントロール不能になる」と言います。さあ、そういう農林水産省のアプローチでいいのかな、これまでそれで成功してきたかな、という気がしてなりませんけどね、私は。


 私は工業都市生まれですが、外務省在勤時に農業交渉に触れる機会があったこともあり、日本の農業に対する思いが人一倍深いです。先日、地元北九州から大分の耶馬溪まで行ってきました。とんちの吉四六さんの世界までもう少しのところまで行ってきました。途中の「道の駅」では新鮮な野菜が廉価で販売されていました。ああやって頑張っている農家の方を見ると、とても嬉しくなります。あと、私の地元北九州では「合馬の筍」が今、旬になっています(一応、宣伝ですが筍なら北九州市小倉南区の合馬です。)。こういう農業、大事にせないかんよなと信じています。20回くらい行ったジュネーブWTO交渉の現場と日本農業の現場の距離感、自分はそれを繋げる人間になれるか、そういうことを思う毎日です。