非常に論理的でも何でもないことなのですが、最近気になって仕方ないことを書きます。それは「自由競争は何処まで行くのか」ということです。


 何故、そんなことを思ったかというと、幾つかの業種を見ていて「これでは収益は上がらないのではないか」と思うくらい厳しい価格競争をしていることを感じたからです。私が気になって仕方がないのが、クリーニング、タクシー、高速バス、この3業種です。それ以外にも「自分達も厳しい価格競争をしているのだ」と感じておられる方、たくさんおられると思いますが、私がこの北九州の片隅で感じることのできる範囲での所感ということでご容赦ください。


 この3分野、私も時々使うことがあるので実体験をもって語ることができるのですが、ともかく最近値段が非常に下がっています。しかも、数が非常に増えています。多分、かつては参入が規制されていたのである程度の価格が維持されていたのが、規制が撤廃されたことにより激しい競争になり価格が下がってきたのだと思います。


 勿論、私はサービスの消費者ですから値段が安いのはありがたいことです。ただ、私はどうしても値段が安いことの背景にまで思いを致してしまいます。「今、自分は背広上下で(休日価格で)250円でクリーニングを出しているが本当にこんな値段で採算が合うのか?」、「北九州から関西までこんな値段でバスを運営してガソリン代も出ないんじゃないか?」、そんなことを思うとただ安いことが本当に善かということが気になって仕方ありません。私の目の前にいるこのクリーニング屋のおじさん、このタクシーの運ちゃん、高速バスの運ちゃん、この方々の生活は本当にしっかりと確保されているだろうか、そんなことを思うと純粋に自由競争を徹底して突き詰めるのが良いと言うことが私にはできません。


 大学時代に近代経済学で「自由に競争することが社会全体の福利厚生を最大化する」と学びました。多分、そうなんだと思います。ただ、消費者の利益は多くの消費者に拡散しますが、その利益の対価となる生産者や供給者の損失は特定の人に集約します。それを簡単にプラスマイナスで計算していいのかなと素朴な疑問を持ちました(スイマセン、本当に超基本的な問題提起で)。極端な例かもしれませんが、クリーニングが10円安くなるために、これまで地元に根ざしてきたクリーニング屋のおっちゃんが廃業する、これは本当に地域社会全体にとって最適解なのでしょうか。


 自由主義経済、良いことだと思うのです。私は人間の本性がきちんと発露されることはいいことだと思っています。そして、経済学上はそうやって各人が自由に行動すれば概ねパレート最適な結果が得られるということになっています。ただ、そういう論理の背景には「人間の顔」がないような気がするのです。自由主義経済を徹底的に追求した結果、失業した人に「あなたには再チャレンジする機会があります。頑張ってください。」と言って、これまで全くなじみの無かった世界へのチャレンジを促すことは、近代経済学のグラフの範疇の中ではありうる話ですが、目の前にある現実とは相当な乖離があります。私は自由競争の結果廃業を迫られる方々に「あなたは社会の中で非効率だったから勝ち抜けなかった。けど、それは社会全体の福利厚生を考えた時には避けて通れないコストなのである。」と真顔で言う気持ちには到底なれません。


 雑駁な感想になりました。「緒方は自由主義を否定する守旧派か?」という批判があるかもしれません。しかし、毎日の生活で辛い現実を生きる人、明日にも倒産しようとする中小企業の方、10円の利益を捻出するために夜も寝ずに頑張る人達に出会う度、「この人たちの声は東京に聞こえているだろうか」、そんな気分になります。