中東和平への日本の関与について少し消極的な意見 を書いたら、かつての同僚から「事態はそんなに簡単ではない。今、中東和平をめぐっては大きな動きがある。そこに日本として関与すべき。」とお叱りを受けてしまいました。まあ、それでも「日本にできることは限られているので、程々の援助と適切な談話外交をやっていればいい」という私の見解は変わらないのですが、それだけだと寂しいのでもう少し中東和平に思うことを書いておきます。


 今の中東和平をめぐるアクターを少し見てみると、和平に向けてはちょっと不十分かなという気がします。パレスチナがアッバース議長、イスラエルがオルメルト首相、レバノンがラフード大統領とシニオラ首相(+ヒズブッラーのナスラッラー議長)、シリアがバッシャール大統領、ヨルダンがアブドッラー2世、エジプトがムバラク大統領・・・、総じて受ける印象は「中東和平がダイナミックに動くにはちょっと弱いな」というものです。何といってもパレスチナのアッバース議長、イスラエルのオルメルト首相の2名の政権基盤が必ずしも強くないことが致命的です。


 私がよく思うのが「中東和平は強硬派が政権にある時に動く」ということです。逆説的に聞こえるかもしれません。強硬派だと物事は纏まらないのではないか、と普通なら思うでしょう。しかし、中東和平のような問題においては、多くの人間の思いが絡み合っており、おいそれとは和平とは口にもできないし、口にしても同意が得られないのです。警察・軍・民兵組織のような暴力装置と近く、中東和平では強硬な立場を持っている人間による妥結でないと、それぞれの国民が納得しないのです。


 歴史がそれを物語っています。エジプト・イスラエルによるキャンプ・デーヴィッド合意の時のベギンとサダト、1993年のオスロ合意の際のラビンとアラファトなんてのはどちらかと言えば強硬派のメンツと言えるものです。ベギンはリクード、ラビンは労働党ですがどちらも決して和平一辺倒の政治家ではありませんでした。


 ラビンの後、政権についたペレス、そしてその後首相になったネタニヤフ、バラクと政権はめぐりましたが、一番安定していたのは強硬派だったネタニヤフ政権時代ではなかったかと思います。少なくとも一番テロ行為が少なかったように記憶しています。ペレス、バラクの両政権は非常に和平を強く訴えていましたが、結局パレスチナに強い姿勢を取ることができず政権末期の姿は惨めなものでした。最近まで首相職にあったシャロンも相当な強硬派でした。1980年代に国防相を務めていた時代は対パレスチナで相当ムチャクチャやったことが非難されていた人物です。そもそも、2000年以降のインティファーダが始まるきっかけになったのはシャロンによるアル・アクサー・モスク訪問でした。しかし、そういう最タカ派とされたシャロンだからこそ入植地撤退などの措置を講ずることができたということなのだと思います。


 「オレは不満だけど、オレよりも厳しい立場だったあいつがやるんなら仕方ないか」、実は日本にもそういうことを期待して政権選択をしたことがありました。1941年第3次近衛内閣が崩壊した際、木戸幸一は開戦回避の道を探るために、逆説的に開戦派の最タカ派だった東條英機陸相を総理として推挙しました。開戦派だった東條陸相を「彼なら開戦派を押さえることができるだろう」と思惑から首相に据え、首相になる時のミッションとして開戦回避を持ってきたわけです(そして、生真面目だった東條首相は開戦回避のために動いたとされています。)。結果としては木戸幸一の思惑は成功しませんでしたが、逆転の発想自体はとても理解できるところです。


 中東和平を見ているといつも似たことを感じます。中東和平で一番使えないのはいつも和平ばかりを口にしている御仁です。幅広い支持を得ることができないので、修羅場の時に全く使えません。そうではなく、普段から厳しいことをやりながら(言いながら)、仏頂面でギリギリ交渉して、最後には嫌々ながら合意するくらいでなきゃダメなのです。今のアッバース議長やオルメルト首相はちょっとそういう役に欠けるなあと感じます。直感的には、ハマスやヒズブッラーが交渉の舞台(多分、それは妥結する直前までは裏舞台)に出てくるところまで行かないと前進しないだろうと思うわけです。逆に言うと、そうでない限りはどんなに美辞麗句を繰り広げてもダメでしょう。


 そして、繰り返しになりますが、そういうプロセスに主体的に日本が関与していくのは無理です。援助は程々に、何か事件があったら適時にコメントを出し、あとは深く関与しないのが賢明です。