行政の扱う事象が膨大になるにつれ、立法府はそれをすべてフォローすることができない、しかし行政は「立法府の決めたことですから」と最終的に責任を取ることはしない・・・、大まかに言ってこういう構図だとすると、どういう解決策があるでしょうか。結論から言うと「完全な解はない」のです。どこまで行っても、行政と立法の間の乖離を埋め尽くすことはできません。しかし、それぞれが責任を持つようなかたちにしていけば、かなりのことができるようになります。


 立法側に「自分達が決めたことなんだから自分達が責任を持つ」という意識が定着するためには、議員立法の強化がいいというのは誰でも思いつくことです。


 ただ、今のままでは色々な困難があるでしょう。まず、スタッフが足らないということがあります。国会議員には政策担当秘書という制度があります。国が費用負担して政策を担当する秘書を一人雇うことができます。まあ、一人では少ないと思いますが、それでもいないよりはマシです。最初から月収43万(税込み)を貰えるという高給取りです。高給を提供することで優秀な人材を集めようとしたのでしょう。しかし、この政策担当秘書制度、完全に失敗していると思います。私が知る限り、政策担当秘書で本当に政策を担当している人は残念ながらあまりいません。使用者たる国会議員がそういう政策立案のために使っていないという幣が大きいような気がします。単に他と同じ(少し給料のいい)秘書が一名増えただけです。勿論、活躍している人も少なからずいますが、ヒドいのになるとそれはそれは目も当てられません。私は議員立法はどんどん強化していくべきだと思いますし、そのためのスタッフは国費で負担してもいいと思いますが、立法という最も重要な仕事にあまり重きを置いてない議員が多い中では単なるムダの積み重ねかなという残念な思いもあります。


 また、国会にある法制局(衆議院法制局、参議院法制局)が十分な力を持ちきれていないというのも議員立法が不十分な理由でしょう。日本の法制度というのはとても歪に思えます。すべての権威が内閣法制局というところに集中しているのです。中央官庁のお役人さんが共通して恐れる場所というのが内閣法制局です。財務省でも、外務省でも、経済産業省でも内閣法制局には頭を下げに行きます。法律などを作るときは内閣法制局というところで審査を受けなくてはなりません。その審査たるや過酷そのもので、法律1行に30分、1時間費やすことなどザラです。私も何度か行ったことがありますが、それはそれは緻密な(しかし、無駄な)議論を吹っかけられては宿題を背負って帰ってきていました。しかし、逆にいえば内閣法制局の審査を通ったものというのは「パーフェクト」の推定が働きます。国会に法律案が出てくる段階では、既に「パーフェクト」の推定が働きますし、それを覆すのは至難の技です。


 しかし、これって変なのです。国会に上がる法律は内閣提出のものもあれば、議員立法もあるわけですが、今は成立する法律の大半が内閣提出(つまり内閣法制局を通ったもの)であって、日本の法律の大多数は内閣法制局の作り出すワールドなわけです。実は議員立法であっても、事実上内閣法制局からのお墨付きを得ているものが大半であって、結局、内閣法制局ワールドは日本の法社会を完全に網羅しています。私は「たしかに内閣法制局の作る首尾一貫性もいいけど、国会側ももうちょい頑張れ」と思います。私は国会側が与野党かかわらず議員立法をしていけばいいと思います。それが現行法と齟齬が生じるものであっても構わないでしょう。すべてがすべて立法の段階で論理的に整合性が取れていることを追求しようとするから大変なのであって、そうでなくてもいいということになれば議員立法のフロンティアはとても広がります。そのためにも衆議院法制局、参議院法制局の力量をもっと上昇させる必要があります。これらの法制局の権威は、残念ながら内閣法制局にはるかに及びません。内閣法制局には各役所のエースが行きますが、国会の法制局はほんわかしたムードの漂う場所です。行政から独立した立場で法律を立案する能力があるかということになると甚だ怪しいです。国会の法制局強化、意外に重要だと思っています。


 私は上記で「別に立法の段階ですべての法律が完全に論理的に整合が取れてなくてもいい」と書きました。こういうことを書くと「いい加減なヤツだ。法の安定性を損なうじゃないか。」と叱られます。そうなんだろうと思います。ただ、相互に齟齬のある法律間の適用関係についてまですべて事前につめなくてもいいじゃないか、むしろそういう機能は司法に委ねればいいだろうというのが私の見解です。議員立法がもう少しメジャーになれば、内閣法制局の作る首尾一貫した世界が崩れて、同じ事象について複数の法律が重なり合うような事態も生じてくるでしょう。その裁定を司法に委ねてしまえばいいと思います。ただでさえ忙しい裁判所に負担をかけることになりますが、私はそうやって法律の抵触関係の裁定にまで裁判所が乗り出してくることようになれば、現在、立法に関して必要となっている立法府や行政府にかかる負担は相当程度下がってくるような気がします。


 まあ、中央官庁のお役人さんが聞いたら「なんといい加減なことを言っているのだ」と批判されることは目に見えていますが、現在の立法プロセスが過度に行政に依存して、その結果、無責任の構造を生んでいることを解消しようと思ったら、「もうちょっと国会の法制局を強化して、自由に議員立法をすることを可能にしつつ、裁判所に複数の法律の適用関係について裁定機能を持たせる」というのが一番いいと思うわけです。ちょっと抽象的な話でしたね。大多数の方には理解が困難だったと思います。お詫びします。


 もう一つ、無責任の構造を解消するために導入してみてはどうかと思うことがあります。それは個々の失敗事例とか、無駄な案件について、後日問題となったとき、意思決定をした時の大臣の責任を追及できるようにするということです。これだけだと意味不明なのでもう少し詳しく書きます。


 かつてフランスでも日本と同じように薬害エイズが問題になりました。日本では厚生省のお役人だけが起訴され、「事件が発覚した際の」菅直人大臣がお詫びをしたというのが大まかなところでした。しかし、フランスでは違いました。血液製剤を使用することを決めた際の首相、保健相、担当閣外相が「服毒(empoisonnement)の罪」で起訴されました。当時のファビウス首相は37歳で首相になり今でも60歳前ですから、社会党バリバリのエースのはずなのですが実際はそうとも言えません。この薬害エイズの件が大きく影響していると言っていいでしょう。日本で言えば、薬害エイズの事件が起こった際の総理は中曽根康弘ですから、中曽根総理や当時の厚生大臣が服毒の罪で起訴されるということになります。私がいつも日本の行政で不思議だと思うのは、何か不祥事があると「事件が発覚した際の」大臣がお詫びをすることです。しかし、その大臣は「オレが決めたことじゃないしなあ。けど、今、偶然に大臣ポストにあるからそのポストにいる人間として一応頭は下げなくちゃいかん」と思っているでしょうから、結局当事者意識がないわけです。本来であれば、「事件が起こった際の」大臣が一番問題なのであって、その責任が追及され、お詫びをすべきなのではないでしょうか。薬害エイズの問題で中曽根内閣の厚生大臣がお詫びをしたという話はあまり聞かないですね。


 そうやって、とある大臣の下で何か意思決定をしたら、その大臣(や副大臣、政務官)は退任後もずっと責任を負うことになれば、それは普段の行政の中でも気合の入り方が違います。変な法律を作ったり、無駄なハコものを作ったりしたら、その責任を最高責任者がいつまでも取らされるということになれば、行政が自己の行為に対して有する責任感は大きくなるのではないでしょうか。言い方を変えれば、現在は行政は常に「機関」として責任を負うかたちになっています。●●省、●●大臣(というポスト)というかたちで責任を追います。これだと問題が発覚した際には、当時の責任者はすべていなくなっていますから、結局責任の所在が今一つ不明なのです。これをその意思決定をした個人にまで責任を降ろして、後日追求できるようにするということですね。


 まあ、色々と書きました。抽象的なところも多いです。霞ヶ関にいない人には甚だつまらない内容だったように思います。ただ、私はかなり真面目です。そこだけはご理解ください。