アフリカ、日本から遠いため親近感を持つのは難しいと思います。私も元々はアフリカに強い関心があったわけではありませんでしたが、外務省に入る際、フランス語をやれと言われてから関心を持つようになりました。


 そして、フランスで2年研修した後、西アフリカのセネガルに2年勤務しました。セネガルと言って、知っている人はあまりいないので紹介する際は「パリ・ダカール・ラリーのダカールです」と説明していました。これで90%の人は「あー、ダカールという名前だけは聞いたことがある」と応えてくれたものです。ダカールでは色々と経験しました。一番の自慢は「マラリアに感染したことがある」ことです。これは外務省同期の中でも(多分)私だけです。夕刻、短パンでウロウロしていたら(蚊に刺されて)次の日から40度の熱が出ました。早期に手を打ったのですぐに治癒しましたが、もはや献血のできない身になってしまいました。かつては献血40回表彰を受けたことのある優良ドナーだったのに今では全く献血センターと縁がなくなってしまいました。最近、骨髄バンクに登録しようとしたら骨髄の提供すら断られました。私の体の内部から出てくるものは、およそすべて使用不可能と判断されるようです。


(全然関係ありませんが、今、献血をしようとすると海外旅行に行った人間は大半がはねつけられるようになっています。欧州諸国旅行経験者はまずダメです。BSEとか色々あるんでしょうが、そんなことをやっていたら日本人で献血できる人間の母集団が著しく減ってしまうのではないかと懸念されます。人体の安全に関わることではありますが、本当に今の基準の厳格さは必要なのかは検討されるべきだと考えています。)


 そんな導入はともかくとして、私はやはり外務公務員としてアフリカ勤務をしたので、アフリカの政治について思うことを少し書き残しておきます(以前も一度書きましたが、ちょっと誤解を招く内容ではありました。http://ameblo.jp/rintaro-o/entry-10013132705.html )。


● 独裁
 独裁に近い国というのはアフリカには非常に多いです。90年代、アフリカでも民主主義の波がかなり盛んになりました。明らかにその流れに乗った国もありました。ただ、「選挙による信託」という器はできたものの、中身が伴っていない国も多いです。アフリカで一番長い在職期間を誇るのはガボンのエルハジ・オマール・ボンゴ大統領。1967年に大統領になっています。「おいおいおい」と言いたくもなります。まあ、そこまでは行かなくてもカメルーンのポール・ビヤ大統領とか、どう考えても「ちょっとまともに評価できない」大統領は結構多いです(ちなみに日本は昨年ビヤを招待していました。その背景にどれくらい戦略的な思想があったかは甚だ疑問ですが。)。ここ数年、実はそういう国は増えているのではないかという気もしています。先進国のアフリカに対する関心がまた下がってきてるのではないかなと私は感じますが、その先進国の対アフリカ関心の低下と筋の悪いアフリカの国の増加は有意の相関性を持っているはずです。


● ガバナンス
 よくアフリカの政治を語る際に「ガバナンス」という言葉が使われます。良い訳がない言葉なのですが、「上手く統治されているかどうか」ということだと理解しています。ガバナンスについては色々な議論があります。ただ、私が理解するところではガバナンスの議論は「民主主義(大きな意味でのまともな政治)」、「汚職が払拭されているか(ミクロの世界でのまともな政治)」に集約できます。これを少し掘り下げてみたいと思います。


● 政権交代が実現できる政治体制
 まず、アフリカで民主主義というのを本当に意味あるかたちで実現するためには、政権交代が実現できる素地を作らなくてはなりません。当たり前のことですが、これが当たり前でないから揉めるのです。
 では、何をすればいいのか?公正な選挙を実現すること、よくこういうことが主張されます。ただ、私はそれ以前のとあることに着目しています。それは「現職が安心して辞められるようにしてやること」です。独裁又はそれに近い状態にある支配者が一番恐れることは何でしょうか。それは「辞めた後に後任からグサッと刺されること」です。権力の座にある内は大丈夫だけど、辞めたら後任から訴追されたり秘密を暴かれたりするのであれば、やはり権力に汲々としたくなるでしょう。在任40年になるガボンのボンゴ大統領だって、「もう、オレだって辞めたいよ。けど、辞めれないのよ。」と思っているはずです。ましてや、現在の権力者の周囲にいて上手い汁を吸っている人間に至っては、権力者の退陣=自分の身が危うくなることですから尚更です。私の住んでいたセネガルでは2000年に政権交代が起きましたが、ディウフ前大統領は選挙に負けが明らかになった時、素直に負けを認めようとしたものの、周囲の夫人や取り巻きは相当に抵抗したようです。最後はディウフの判断で負けを認めましたが、一つ間違えば内戦になりかねないところでした。アフリカの民主主義のモデルと言われるセネガルですらこの有様ですから他の国の状況は推して知るべしです。
 私はここに手を打たない限り、今のアフリカの権力者が素直に政権交代が可能な状況を作り出そうとはしないのだろうと思うのです。つまり「これまでの悪行は辞めた後も目を瞑ってあげるから素直にお辞めなさい」と言ってあげるだけの雅量を持てるようになるかどうかです。本当に目を瞑ってくれるのなら辞めて静かに過ごしたいと思うアフリカの指導者は多いように思います。その背中を押してあげることです。
 勿論、これは公正な司法制度とか、汚職の解明といったことにも、素直に辞めるのなら蓋をしてあげようということですからベストの選択肢ではありません。純粋な社会正義を追求したい人には到底受入れられない考え方でしょう。ただ、そんなキレイ事では物事は動きません。(組織的に虐殺をしているといった事情があるのであれば話は別ですが、そうでない限り)辞めた後も面倒みてやるから、おとなしく辞めていってくれ、と言えるだけの素地を作ってあげることのメリットは大きいと思います。これまでの悪事を見逃すことと、それで国全体の政治の風通しがよくなることの比較考量の話です。


●日々の政治の運営におけるガバナンス
 よく「汚職を撲滅しよう」とか言いますが、あれ、アフリカの地においては絵に描いた餅だと思うのです。汚職をする人は何故不正にお金を稼ごうとするのか、稼げるのかを考えてみればいいわけです。
-- お金を何らかの形で必要としている(貧困等)。
-- しかし、総じて給料は安い。
-- 自分が自由にできるものは行政の裁量(つまりは規制)。
-- 規制が生じるところにはレント(不労所得)が生じる。
-- 規制を悪用することでお金を稼ぐ。
-- そして、その悪用に対する社会的な防止策が薄弱。
 非常に簡単なことです。客観的な環境と人間の本性を考えれば、当然不正を行いたくなる環境が整っています。これを防ぐには「ある程度豊かになること」、「不正に対する懲罰が制度面、執行面で確保されること」が必要でしょう。そんなことを現在のアフリカに期待しても無理です。無理だと言明することは辛いことですが、現実から目を背けても仕方がありません。下手に制度だけ整えて上手く行かず、アフリカ悲観論などをぶつ識者は多いですが、そもそも先進国の美しいストーリーを押し付ける側に問題があるのです。
 しかも、アフリカにおいては部族の力が非常に強く、偉くなったものは自分の部族に還元するのが当たり前という感じがないわけでもありません(出身母体に利益還元するというのは日本でもありますけどね)。そういうのをネポティズムというのか、社会制度として不可欠なものと考えるかは色々議論がありますが、まあ簡単に「利益誘導はいかん」とか「汚職するな」とか言っても通じない世界であることは理解する必要があります。
 では、何ができるのかというと、正直なところあまり良いアイデアはないのです。「仕方ない」として割り切ってしまうのが一番良いのではないかと思ったりします。あえて挙げるとすれば、不正に対する不平等が生じないように(つまり特定の部族だけが不正で稼ぐことのないよう)、政府内部にすべての部族を参画させ、相互チェック機能を働かせることはそれなりの効果を示すと思います。
 なんとなく悲観論っぽく聞こえるかもしれませんが、そうではありません。不正や汚職があるのをある程度前提にしつつ、それがとんでもない状態にならないようにするにはどうしたらいいかというアプローチで考えたほうが生産的であるということを言いたいだけです。国際機関の描くガバナンス論はどれもこれもあまりに美しすぎて、非現実的かつ非生産的で嫌いです。


●アフリカの国を上手く統治していくには
 これも上記の延長になります。アフリカの国は恣意的な国境線が引かれたせいで、今ひとつ国民国家という意識が根付きにくいです。国内に多くの部族がおり、しかも一部族が複数の国家に分断されているケースも多々あります。
 こういう状況では、単に公正に選挙をやれば最適な状況が出てくるというストーリーはあまりに稚拙です。今のイラクも同じです。選挙を公正にやれば、シーア派が圧勝して大統領も首相も政府の主要ポストもすべてシーア派で占めることすら可能です。それは国の崩壊を意味します。アフリカにはそんな国ばかりです。
 私は「コミュニケーションの民主主義(democratie de communication)」というテーゼを昔から考えています。何かというと、民主主義が成立するためには国内の主たる勢力間にコミュニケーションが成立してないといけないのです。当たり前のことだと思うかもしれませんが、広大な大地、貧弱なインフラ、強い部族意識といった要素が強いアフリカではこのコミュニケーションが取れないことが最大の問題なのです。対話の素地が存在しないために内戦になった国など山のようにあります。相互に反目しあう勢力であっても何かしら協力できるようなコミュニケーションの場を作ってあげないといつまで経ってもアフリカは上手く行かないでしょう。
 だから、私はアフリカ政治を考えるときは常に「連立政権」ということを念頭に置くようにしています。すべての勢力から代表を必ず入閣させて、政府の意思決定に参画させる、これだけでだいぶ違います。政府の幹部クラスにも一定の比率で各部族を入れてあげることで相互チェック機能は働くでしょうし、また、首都においてそれらの各部族代表間でコミュニケーションが成立するわけです。ニジェールやマリでは常に(かつて反政府組織であった)砂漠の民トゥアレグ族から1名入閣します。アフリカではありませんが、タジキスタンでもかつての反政府勢力からヒゲもじゃのおじさん(ムジャヒディーン)が入閣しています。それが生活の知恵なのです。
 その連立政権において、多党制であるか、一党支配であるかはあまり重要でないと思います。私は政治勢力間に一定のチェック機能と抑制機能が働くのであれば、別に当面は一党支配であってもかまわないとすら思います。少なくともアフリカでは、すべての勢力がガチンコの勝負をするスタイルの選挙で多党制と競争を実現しようとする試みの優先順位はかなり低いと見ています。


 少し長々と纏まりのない文章を書きました。「ガバナンス」という言葉を純粋に信じている御仁達には受けの悪い意見です。私が美しい世界観よりも、ホッブズのリバイアサン的な人間の本性に重きを置くせいなのでしょう。