昨年末くらいから「核兵器保有」についての議論がまき上がっています。与党政調会長は「議論することくらい良いのではないか」と言い、野党は「核保有があり得るかのような議論は非核三原則に反する」と言っています。


 はっきり言って、この議論、噛み合っていないのです。両者とも本質的な議論に踏み込んでいない無責任な議論なのです。しかも、一番重要なところに目を伏せています。見ていて、なんて成熟していない議論なのだ、と残念でなりません。


 まず、私は「議論くらいしてもいいに決まっているではないか」という立場です。これは当たり前です。議論を封じることは適当ではありません。与党政調会長のように挑発的に「今は非核五原則、作らず、持たず、持ち込ませずに加えて議論せず、考えさせずというのがある」と言ったモノの言いはしたくありませんが、別に議論をやってみることは民主主義国家として当然の所作です。北朝鮮が(稚拙ではありますが)核保有をする中、日本で核抑止論についての議論がなされることは当たり前です。


 ここまでは与党政調会長(そして、心理的には共感している総理)と同じ立場です。「では、おまえは総理や与党政調会長と同じ立場か?」と聞かれると、私は「ちょっと違います」と応えるでしょう。総理や与党政調会長は「核保有についての議論はOK」とまでは言いますが、その後を言ってないのです。それは「今、日本が核兵器を保有しようとすると何が起こるか」です。


 仮に核兵器を保有したとすると、核不拡散防止条約に反することになります。現在、日本は原子力に関しては優等生ですが、核兵器保有をすれば一気に北朝鮮と同じレベルまで後退することになります。そして、今、平和的利用ということでアメリカや英仏から核燃料を提供してもらって原子力発電をしているわけですが、そういう核燃料の提供もストップすることになるでしょう。日本でもウランの取れる場所はないわけではありませんが、まあ、原子力発電を回していくだけの核燃料にはなりませんから原子力発電は止まってしまうでしょう。インドは核実験をやりつつも、アメリカと民生用の原子力燃料を提供する協定を締結しましたが、あれと同じことを日本がやるのは無理です。隣国との関係も相当に緊張することが予想されます。


 現行の核不拡散防止条約のレジームを根本的に転換する度胸があるのなら別ですが、核兵器保有について議論すべきと喧伝する御仁もそこまでの腹は括っていないでしょう。そもそも、今の核不拡散防止条約は(不平等条約でありつつも)微妙なバランスの上に成り立っていますから、このパンドラの箱を開けると収拾がつかなくなることはほぼ確実です。一旦開けたら、エジプト、南アフリカ、ブラジル、マレーシア、イランあたりの国からの要求がとめどなく出てきて、核不拡散体制は崩壊するでしょう。そのコストを日本一国が背負う度胸があるとは思えません。


 結局、核兵器保有をすることのコストはとてつもなく大きいのです。そのコストは単に外交上、政治上のものだけではなく、電力供給という日々の生活にズッシリ圧し掛かってくるコストです。そうやって考えると議論した結果は相当に明らかなのです。そんなことは少し核問題をかじれば分かることです。それを言わないのは相当に無責任だと思うわけです。総理や与党政調会長は議論した結果、あたかも保有する可能性があるかのような余韻を残しているように見えます。もしかしたら中国や北朝鮮に対する圧力として考えているのかもしれません。ただ、本当は結果が見えていることを隠しながら、そういう議論の可能性だけを喧伝するのはオオカミ少年みたいなものです。逆にイデオロギー的に「議論することも反対」と言っている人も稚拙です。何故堂々と議論に乗って、核兵器保有が全く現実的なオプション足りえないことを言わないのでしょうか。


 そのあたりは勉強不足の人もいますが、別の思惑を感じなくもありません。つまり、「核兵器保有のオプションは非現実的でありえない」とまで言い切ると抑止力の観点から有益ではないので議論提起だけをして放っておく、そうやって議論を巻き起こし結論を言わないだけで周囲の国への抑止力になるものなのだ、そういうことなのかなと思ったりします。仮にそうだとすれば相当に上手いやり方です。ただ、上記で述べたようにそれを突き崩すのはそんなに難しい話ではありません。


 ところで、この核兵器保有の議論をする時は隔靴掻痒の感があるのも事実です。それには理由があります。核兵器持込の議論があるからです。今の日本の安全保障をめぐる環境をもう一度整理してみましょう。今の日本の核政策を要約すると以下のようになります。


● 持たず、作らず、持ち込ませずの非核三原則(領海内通過も否定)は堅持している。
● したがって、在日米軍も核持込はしてない(ことになっている)。持ち込む場合は事前協議の対象(岸・ハーター交換公文及び藤山・マッカーサー口頭了解)。
● ただし、日本政府の立場は「事前協議がないこと、それは即ち持込がないことを意味する」として、持込について在日米軍に照会することはしていない。
● しかし、日本にはアメリカの核の傘(核抑止力)があることは公式に認めている。


 日本は核の傘に守られているけど、その傘の柄の部分(核兵器そのもの)は日本国内には存在していないことになっている。その傘の柄がないことについては、アメリカが「ない」と言っている以上、それを信用している。簡単に言うとそういうことなのです。日本政府に聞けば、どんなに締め上げてもこの論理を崩すことはしないでしょう。


 しかし、核の傘に守られているのに核兵器が持ち込まれてないというのはどういうことなのでしょうか。北朝鮮や中国の核兵器に対して、アメリカは日本を核の傘で守っている、ただ、それは日本の領土・領海の外にある核兵器であって、いざ朝鮮半島有事、台湾有事になったときもアメリカは日本の領土・領海の外から脅しを掛けるか、事前協議を行った上で核兵器を持ち込み、日本を核兵器で攻撃しないことを担保してくれるということなのでしょう。これをどう受け取るかは各人の自由ですが、スッと納得する人は少ないのではないかと思います。


 まあ、普通に考えれば「日本に核兵器は持ち込まれている。ただ、それを追及することはしない。相手と阿吽の呼吸でそれはやらないことになっている。ただ、その核兵器が抑止力になっているのだ。」という論理の方が遥かにすっきりします(あくまでも論理上の問題であって、現実問題としてどうかと聞かれると私は知りません。)。そうでないことを証明する挙証責任は本当は政府側にあるわけです。しかし、その挙証責任は「ないものはない。信じなさい。」、これだけです。通常の裁判なら絶対に負けるでしょう。


 ちょっと長々と書きましたが、この日本政府の(素直に見れば現実性が疑われる)公式論が核兵器保有の議論に大きく影響していると思うわけです。日本国内には核兵器がない、けど、核抑止力が働いているということを前提にする限り、何処まで行っても建前論で終わってしまいます。結構多くの人が「実はあるんじゃないの?」と思いつつも、オモテの議論では「いえ、ありません」でパシッと切り捨てられてしまうと議論の広がりはありません。朝鮮有事の際にどういうオペレーションをするのかという議論も「核兵器はない」という前提と「実はある」という前提とでは全然シナリオが異なるわけです。日本政府は「ない」ことを前提にシナリオを書かなくてはなりませんが、もしかしたらそのシナリオは根本的に間違っている可能性もあるわけです。まあ、日本政府が「持ち込みはない」と言っても、周囲の国は「きっとあるんじゃないの?」と思うだけで抑止力になりますから、抑止論の議論に限定すれば「持ち込まれているかどうか」はあまり意味のないことなのかもしれません。


 恐らく「日本に核兵器は持ち込まれているか?」という議論については永遠に分からないでしょう。そういうもどかしさを抱えながら生きていく、それが日本人に課せられた業なのでしょうか。