新しい内閣は右傾化していると言われています。私は「左」とか「右」とかいう分け方が好きではありません。というか、突き詰めて考えていくと何のことか分からないのです。保守派のことを「右」というのでしょうか。共産主義は「左」でしょうか。では、共産主義国家で保守派の人たちは「左」の「右」なんでしょうか。


 ちなみに左派、右派というのはフランス議会で革新派が議長から見て左側、保守派が右側に座っていたことから来ています(今でもフランス国民議会や日本の国会ではそういうことになっています。)。ただ、そのフランスの議会でもよく左派、右派の言っていることが、伝統的な左翼・右翼の仕分けと比較するとよく逆転していることがあります。また、フランス議会は歴史的に「surenchere(せり上げ)」という現象があって、政治家(政党)は当初左側からキャリアを始めるが、次第により「革新的」な勢力が左に現れて、どんどん右側に押しやられていくということです(議会でも座る位置がどんどん右に寄っていく)。あの国には昔「急進(radical)」と名のつく保守っぽい政党がありました。


 何が言いたいかというと、「左」とか「右」とかいう色分けは非常に相対的かつ観念的で、指標としてはあまり正確ではないのではないかということです。あたかも政治家や政党が左から右に一本線で説明しうる指標の上で色づけできるほど世の中は簡単ではないということになります。そんなことを考えながら、今の政権を見ていると「修正主義」とでも言うといいのかななんて思います。


 そういう現政権、やっぱりポイントは「過去の問題」です。攻めどころがあるとすればここでしょう。私は「反省すべきところは反省し、言うべきことは言う」という、当たり前のポジションです。とは言っても、そういう一般的な部分では皆反対はないわけで、「では、何が反省すべきことで、何が言うべきことなのか」まで掘り下げないと意味がありません。そういう前提はあるものの、私なら現政権にこういう質問をしてみるような気がします。どれもそれなりに答えに窮するでしょう。


● 村山談話(http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/danwa/07/dmu_0815.html )を踏襲するのか。
→ これまで、現政権の長は「村山談話は歴史的な談話」としか言っていないんですね。村山談話を過去のものとするかのような印象を受けることもあります。多分、それがホンネなんでしょう。些細なことのように見えるかもしれませんが、はっきりと「あの談話をきちんと引き継ぐ」ことを明らかにするよう求めるだけでも面白いのですね。これまでの話し方は(一般の人には分からないかもしれませんが)「逃げが打てる」ような内容になっているのです。「新しい談話は出さない」とか、「歴史的な談話だ」とか言って逃げを打とうとするので、「現在、どういう認識なのか」を鬱陶しいくらいに聞いていくと、現政権の長がどういう顔をするのか、ちょっと個人的な興味があります。


● 日中共同声明の際に、毛沢東と周恩来は「戦犯と一般国民を分けて考え、日本国民は悪くない。」ということで賠償を求めず、正常化に踏み切ったとされることへの問い。
→ 現政権の長は 「そんな紙はない。外交上は紙がすべてだ。」と言い張ってました。ただ、仮に国交正常化のときにそういう共通理解があったのが事実とするのなら、そもそもそんなものは紙にすべきものではないわけで、むしろ、そういう話を紙にせず阿吽の呼吸で整理したのは先人の知恵なんだと思います。何でも「紙に書いてないから知らん」とする姿勢は、稚拙なのか、基礎的な外交センスが欠けているのか、それとも別の意図があるのか、どれかだと感じます。あと、「それでは北朝鮮の金総書記が拉致について口頭で謝罪したというのも後世の人間にとっては存在しなかったことになるのか?」と(謝罪は日朝平壌宣言には書いてない。)聞かれたらどうするんでしょうね。


● サンフランシスコ平和条約で日本は東京裁判を受諾するとなっているが、日本は東京「裁判」を受け入れたということの再確認を求める。
→ これまでの(官房長官)答弁では「裁判」と言わずに、ひたすら「ジャッジメンツ(judgements)を受諾した。」と英語で言っています。これは「東京裁判(英語でjudgements)全体を受け入れたんじゃない。判決(これも英語でjudgements)の執行だけを受け入れたのだ。」ということを言いたいからでしょう。切なくなるような稚拙な逃げ方です。あと、答弁で「裁判に異議を唱えて損害賠償などを求めることはできない」と言っています。上手い言い方ではありますが、裁判の是非の話を「損害賠償」に矮小化しているんですね(誰も損害賠償なんかしないことが分かった上での話ですから)。ここの読み方はとても微妙です。ただ、別の機会に政府参考人は「裁判所の設立、審理、根拠、管轄権、訴因の元となる事実認識、起訴状の訴因についての認定、判定、宣告、このすべてが含まれる」と言っていますからねぇ。


● 先の戦争で悪かったのは誰なのか。
→ 現政権の長は「自分たちは裁判官ではない。色々な議論があるので誰とは言えない。」と言います。一方で、村山談話には「国策を誤り・・・、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた」とあります。アジアの人から、「この国策を誤り・・・苦痛を与えた責任者は誰か?」と聞かれたら、私ならばとても困ってしまいます。「日本です。」と言うのでしょうか。それこそ、現政権の長が一番嫌いな一億総懺悔ですよね。 「誰が責任者か分からない」というのは突き詰めていくと「誰も悪くない」という結論もあり得るでしょう。特定の名前を挙げていっても、すべてについて「いやー、その人の良し悪しについては分かりませんな」と答えるわけですから。それこそ、政治学者の丸山真男という人が言った「無責任の構造」です。苦しいですね、ここも。

 私が嫌いなのは、「そもそも東京裁判は日本が自発的に行ったものではない。日本は単に裁判を受け入れただけ。だから、戦犯は国内法的には犯罪人でもないし悪くもない。」という、最近よく聞く言論です。事実としては「国内法上は犯罪ではない」というのは正しいんですけど、「だから悪くない」というのもいかがなものかと思うのです。


 現政権の長は祖父の呪縛から解き放たれていないように思えるのは気のせいでしょうか。自分の祖父(A級戦犯未起訴)の名誉を守りたいという思いを強く感じます。ちょっと違うんじゃないの、それって?と素直に思います。


 あと、最後にちょっと情緒的になりますが、最近の世相に「自分以外はバカの時代」というのがあります。私も最近の過去の問題をめぐる議論の中にそれを感じます。まず「独りよがりになっちゃいかん。」と一呼吸置いてみるのは大切ですよ、結論はどうであれ。