格差社会という言葉を良く聞きます。この表現、分かりやすいようで分かりにくいところがあります。


ここで言う「格差」とは何を言うのでしょうか。収入の格差でしょうか。収入が高いということは、その収入を得ている人の労働生産性が高いということを意味するのだと思います。生産性の高い人に高い収入が払われることは、資本主義経済においては至極当然のことです。手法はともかくとして、株式投資等で巨額の金銭を手に入れることは、それはそれでリスクをとった上での成功ですから、あえて非難の対象にすべきものではないと考えます。非難されるべきは、違法な手段を用いた場合です(脱法行為についても同様だと思いますが)。仮に収入の差のみを以て、「あいつとオレの収入にはこんなに格差がある。それはけしからん。こういう格差は是正すべきだ。」というのであれば、それは社会的に正当化できないでしょう。


では、現代社会に資本家による搾取の構造があるということなのでしょうか。これについては、世界観の違いが大きく影響しますが、少なくともそのようなテーゼが現代社会において大衆の理解を得られるとは思えません。ましてや、その搾取の構造に対する非難の行き先が共産主義的社会であるのなら、それは絶対に違うと言えるでしょう。


「ムラカミやホリエみたいな人間はあぶく銭を貪っている。ああいうのはけしからん。」、分かり易い議論です。ただ、経済が拡大する時には儲ける人間が出てきます。それ自体を批判しても意味のないことです(勿論、彼らが法を犯したことを正当化しているのではありません。ただ、違法であるという事実を超えて、ただ「儲けた」ということだけを批判するのも筋違いです。)。また、逆に成長の果実を彼らだけが独占しているというのでもありません。限られた人間だけしか果実を享受できない成長なんてのは今の日本ではありえないでしょう。スケープ・ゴートを作るのは簡単で面白いですが、問題の本質を見誤らせることになります。


そもそもですが、現代の日本社会では所得格差が広がっているのかというとそうでもないようです。所得格差を表す指標であるジニ係数(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%8B%E4%BF%82%E6%95%B0 )はそれほど拡大してないか、所得再分配後はむしろ小さくなっているという統計もあるようです。際立って所得格差が拡大しているということはないみたいです。また、世界的に見れば日本のジニ係数は非常に小さいわけです。日本は社会保障等が整備されているので所得再配分が行われ、底抜けに所得格差が拡大することを防止する機能があるということなんでしょう。


いずれにしても、私は収入の差の事実だけを以て「格差社会」を批判する論調にはピンと来ないものがあります。では、仮に格差社会が現象として出現しているとすれば、それは何なのだろうかと考えます。経済学的にどう分析するのかはわかりませんが、私が思うに①所得の「質」の差、②地理的な格差、③差の固定化ということではないかと思います。


① 所得の「質」の差 ---- precarite
最近、若年層の職の形態が「派遣」だったり、「『請負』に名を借りた偽装派遣」だったりすることが増えています。結構な大企業でもよく見てみると正社員は意外に少なかったりします。そして、派遣社員については給与面でも冷遇されますが(しかも、違法な
やり方で派遣されている人も多い)、やはり一番の問題は安定的でないということだろうと思うのです。いつでもクビを切られるかもしれんという不安がある、そういう若年層の職に対する不安定感が単なる所得の差以上に不当感を増しているのだと思います。


フランス語でよく使う単語で非常に日本語に訳しにくいものがあります。それは「precarite (d'emplois)」という言葉です。「一時的な」とか訳されたりしますが、それだけではすべてを表しきれません。上記で言ったような、雇用形態が不安定であることを表します。1980年代くらいからこの言葉はよく使われるようになったのではないかと思います。こういう言葉が日常的に使われるという事実自体、今、日本であるような職の不安定な現象が昔から日常的に存在していたことを意味するのだと思います。これに対して歴代政権は色々な手を打ってきました。最近のものといえば、今のド・ヴィルパン政権が導入しようとしたCPE(Contrat Premiere Embauche)です。これは何かというと、企業は新規に雇用したものを2年間は自由に解雇できるようにするという規定です。理屈としては、今のフランスの労働法では一旦雇うと解雇できないから企業も新規雇用に後ろ向きになる、だから当初2年は自由解雇を可能にすることによって、逆に企業に新規雇用のインセンティブを与えようという発想なのです。何処の国でも若年層の職の不安定さは問題になるようです。なお、このCPEは徹底的に叩かれて潰れました。この法案失敗でド・ヴィルパンは次期大統領の目がなくなったと言われています。


② 地理的な格差

これはあまり説明を要しないと思います。最近聞いたのですが、私の故郷北九州の所得水準は全国平均の9割くらいだそうです。「政令指定都市なんだけどなあ」とちょっと慨嘆します。個人の所得格差の議論だけで格差社会は語るべきではないと上記で言いましたが、こうやって地域レベルで所得に格差が出てくると、個人の所得格差とは少し違った感じになってきます。地理的な不利性がボンヤリと、しかし現実のものとして現れてきます。

本当はこれも地域全体の生産性の問題だったりする面もないとは言えないのですが、その生産性の格差を生み出すものは何なのかというところまで突き詰めていくと、どうしても「東京vs地方」という構図が出てくるのは否めないでしょう。東京に住む人からすると「そんなこと言われても困る。私が何か悪いことをしたか?」ということなのでしょうが、人材、資源、お金すべてが大都市圏に集まり、それが何ともやるせない気持ちを生み出していることに思いを馳せる必要があるでしょう。こうなるとどうしても感情抜きには語れなくなります。また、地域レベルでは比較的「搾取の構造」的な議論も受け入れられやすくなるでしょう。この「東京(+三大都市圏)vsそれ以外の地域」での差が収入面だけでなく、生活のあらゆるところに出てくると、格差社会という言葉がより現実味を帯びたものになってきます。


この②は少し議論が雑ですね。もう少しクリアーに書ければいいのですが、ちょっと上手く書けませんでした。反省します。


③ 差の固定化

これは良く語られます。「富める者は更に富み、貧しい人はそのまま」みたいな社会になっているのではないかということです。そうなのかな、そうかもしれんなあ、と私は思います。下関を地盤とする三世議員が最近「再チャレンジ議連」とかで盛り上がっていますが、多分、このあたりを相当意識しているのでしょう。「格差があることが問題じゃないんだ、格差が固定化されることが問題なのだ。」とよく言っています。その帰結は「失敗してもチャレンジすればいいじゃないか」ということです。理屈としては正しいです。ただ、私は「再チャレンジ」を国民すべてに求めるのは無理があるとも感じます。「再チャレンジ」というのは「チャレンジする気持ちのある人間」、「リスクをとれる人間」にのみ有効な議論です。しかし、世の大半の人は「チャレンジなんかしなくてもいい、リスクなんか取りたくないから平和に生きていたい」と思うのです。私の母がそうです。私の母に「すってんてんになっても再チャレンジしなよ」なんて言ったら気を失うでしょう。そういう意味で私は京都出身の二世議員が主張する「絆」みたいな社会のセーフティネットワークの方がピンと来ます。


ただ、差が固定化されているからといって、今よりも所得再配分を強化することには否定的であるべきでしょう。ある程度の所得格差が生じることは否めないわけで、国がやるべきは底が抜けないようにセーフティネットを整備することだと思います。


まあ、色々と書きましたが、どれもこれも「差がある」という事実問題よりも、「『差がある』という不当感がある」という感情の問題がポイントになると思うのです。そして、その格差が現実問題としても正当化し得るものでないと、格差社会批判は机上の空論化してしまいます。


昨今、よく話題になる「格差社会」。色々なことをいう人がいます。「あいつがこんなに稼いでいるのはけしからん」の次元で批判をしているだけでは、生産的なものは絶対に生まれません。そういう次元を超えて、きちんとその本質を見抜く眼力が必要だと感じているところです。