先日、地元北九州に帰りました。たまには親の顔でも見るかというのが主たる目的だったのですが、いつも帰ると思うことがあります。東京と地方の格差です。今、東京は(多分)超好景気です。街中を歩いていても「ホント、絶好調やね」と思うことばかりです。しかし、地元に帰ってみるとそんな東京の好景気の風など何処の話しなんやろか、と感じずにはいられません。


「何が違うんやろか?」と考えます。経済構造の違い、地理的な側面、資本生産性・労働生産性の違い、まあ、色々なことが頭をよぎります。ただ、私が一番思うのが「情報量の差」です。どう説明したらいいのか難しいのですが、街を歩いていて得られる情報の量に大きな差があるのです。東京を歩いていると、情報が洪水のようにやってきます。取捨選択するのが辛いくらいの情報が私に与えられます。そして、情報がたくさんあるとすべての物事に選択肢が増えてきて、刺激も増え、気分も何処かポップになってきます。


「格差があるから情報量に差がある」のか、「情報量に差があるから格差がある」のか、私にはよく分かりません。因果関係をきちんと説明するのは難しいでしょう。ただ、いずれにしても東京と地方の違いで一番大きく感じるのはここです。


よく識者は言います。「インターネット社会では世界の何処にいても自由に情報が得られるようになり、その結果として世界は平準化する方向に向かう。」等々。そうなのかもしれません。多分、真実の一面を突いていると思います。今は日本の何処であっても、もっと言えば世界の何処であってもインターネットの世界が広がっています。ただ、実際はそんなに物事はクリアーカットではないと思います。バーチャルな世界で得られる情報を実社会で活用するための「場」の構成のされ方、これも情報量に左右されると思うわけです。仮に日本のすべての家庭にあまねくインターネットが整備されたとしても、日本全体に東京のような情報量が溢れる起こることはないでしょう。それは情報を活用するために必要な「場」が存在しないからです。そして、それは厳然たる格差となって現われます。


ではこの差をどう解消するか、ということになります。地方分権を徹底的に進めるという処方箋を提示するのが最近のトレンドです。「『差がある』と感じること自体、東京一極集中を前提とした考え方。それをコペルニクス的転換する必要がある。地方がそれぞれの良さを持って独り立ちしていけば良いのである。だから徹底的な地方への権限、予算委譲をすべき。」、よく聞く議論です。方向性としては正しいのだと思います。ただ、地方分権すれば東京との格差を意識しなくなるかというときっとそんな時代は1万年待っても来ないでしょう。日本が連邦制国家になっても無理だと思います。地方分権を進めると一定の遠心力が働くようになります。しかしながら(というか、それ故に)、中央との格差を強く意識するようになるのが人の常ではなかろうかと思います。


「情報は程々でいい。東京はやかましいから好かん。」、私の母のコメントです。それは正しいと思います。すべての人間が完全に情報を入手するチャンスを与えられ、それに基づいて合理的な行動をする、経済学で言うとシカゴ学派っぽい前提ですが、そういうメカニカルな世界観は私も好きではありません。ただ、地元を歩くときに感じるあの情報量の差、受ける刺激の差、あれをある程度解消するようにしていかないと、どんなにお金を投じてハコモノを作っても東京との差は縮まらんよなあ、そんなことを感じました(もしかしたら、上記で言ったように因果関係の捉え方が全く逆なのかもしれませんが)。


若干支離滅裂で情緒的な文章になってしまいました。