私がいつも郊外をドライブしていて思うのは「風景が美しくない」ということです。農村のど真ん中に巨大スーパーがあったり、突然巨大な工場があったりして、かなり違和感があります。フランスの話になって恐縮ですが、あの国はゾーニング(区域分け)がしっかりしているので、パリからTGVに乗ると20分もすると(補助金漬けの)小麦畑がパーッと広がります。あれはあれで美しいですし、観光資源としても意味があるのだと思います。


昔、91年にブッシュ(パパ)大統領が訪日した際、彼は忙しい日程を押して、たしか奈良県のトイザらスの開店式に行きました。あれは大規模店舗の開店基準を緩和させるために大店法の廃止をアメリカが求めて、それが結実したことから開店が可能になったものです。それまでは大規模店舗の開店については相当に厳しい基準がありました。ちなみに、奈良のトイザらスは業績不振で最近閉店しました。


まあ、大店法の廃止も郊外型スーパーがポコポコできるようになった原因でしょう。だからこそ、奈良の件は「おいおいおい、人の国を食い潰して逃げおって・・・」という気分です。


それに相まって、「都市計画法」という法律が整備不十分だったことも問題でした(というか、こっちが主たる原因)。この法律は簡単に言うと、日本の都市を色々と区割りしてそれぞれに規制を掛けるというものです。あまり細かく書きませんが、開発の対象となる「市街化区域」、開発を抑制する「市街化調整区域」、そもそもそういう区割りがされてない区域、更には都市計画区域の外になっています。普通の国ならば、中心部から遠ざかるにつれ大きな建物は建てられなくなるのですが、日本のこれまでの都市計画法は、市街化調整区域という市街地外延部はともかく、それより外側に行くと規制がなく何でも建てられてしまいます。市街化調整区域ですら、計画的大規模開発はOKとか、病院、福祉施設、学校などはOKといった穴があり、しかも、区域の区分を変えさせること自体が利権化してしまっている面がありました(市街化調整区域は開発を抑制しなくてはいけないが、その区分を変更させることで開発が可能になるため、市長、議員等がこれを利権化してしまった。)。普通は市街地を離れたところでは、農地に関する法律で規制するのですが、農地転用もこれまた運用でザル化しているので、結局田んぼの真ん中に唐突にスーパーが立つという構図になってしまうわけです。


しかも、郊外型スーパーが増えるに従って、街の商店街が寂しくなったということもあります。私の故郷北九州市八幡西区に黒崎という駅があります。私が小さい頃は結構栄えていました。商店街がにぎやかで、お買い物をするなら黒崎で、という感じがありました。しかし、最近では種々の理由からとても寂しくなってしまいました。私が行っていたゲーセンも潰れていましたし、ラーメン屋もなくなっていました。(これは別の理由ですが)「黒崎そごう」も潰れ、デパートで残ったのはローカルな「井筒屋」だけです。駅前はパチンコ屋だけが賑やかで、これぞシャッター通りという感じがしてなりません。


ということで、先の通常国会で「まちづくり三法(中心市街地活性化法、大店立地法(改正せず)、都市計画法)」の見直しが行われました。極々簡単に言うと、「郊外での開発を非常に厳格に規制して、街の中心に生活に必要な機能(商業施設、学校、病院等)を集めるようにし向けよう」という考え方です。まあ、今後、人口が減少する中で街の中に住み、生活に必要な機能を中心部に集めるようにしようということです。最近、よく聞く「コンパクトな街づくり」というのはそういうことです。


たしかに身近な場所に生活機能が集中することは良いことです。歩いて暮らす人が増えることでコミュニケーションが増えることに意味があるでしょうし(現代社会においては、田舎の人の方がコミュニケーションが少なくなっているはずです。車社会が根付いていますから、車で会社に行き車で買い物し家に帰ってくる。東京の方がよっぽどどっか寄り
道したり、誰かと話したりするチャンスが多いんですよね。)。
既にバラバラと人が住んでしまっていて、ショッピングセ
ンターがないと不便でしょうがないような街は規制を解除すればいいのです。


フランスやドイツでは、基本概念が「計画なければ開発なし」という原則が確立しています。市町村が明確なマスタープランを持っています。どちらかといえば公益を重視して、都市的地域と田園地域を明確に分離した土地利用規制がされています。都市全体をどう開発していくのかという視点が明確になっているので、むやみに郊外で開発をするといったことが難しいわけです。逆に日本の都市計画法では「開発規制」がベースにあるので、個別の土地をどう開発するのかという視点を超えることが出来なかったということのわけです。「開発規制」がベースになると、どうしても区域区分が利権化しやすくなるわけです。


今回の都市計画法改正は、郊外部でのでかい建物を「原則禁止。ただ市町村がどうしても建てたければゾーニングかけてOKにしてもいいよ」とするものです。現行法は、「原則容認。市町村がどうしても建てさせたくなければ、ゾーニングかけて禁止してもいいよ。」となっています。今のゾーニング(特別用途地区)は、全国で20程度しかないそうです。というのも、ショッピングセンターの客は市町村を超えて買いに行くので、近隣市町村が一緒にゾーニングかけない限り意味がないからです。


その心意気や良し、と思います。勿論、「郊外立地を規制したって中心市街地の衰退なんて止まらないよ」という人も多いと思います。多分、そのとおりなんでしょう。ただ、市町村により広範な選択権を与えることは意義のあることだと思います。まずは枠組みを整備した、そういう感じですかね。


とは言っても、枠組みだけ出来ても駅前が発展するわけではありません。どんなに郊外での店舗出店が規制されても、やっぱり「行きたくなる街」でないのなら駅前が賑やかになるわけではないでしょう。やっぱり、頑張る人がいて、知恵を出していくことが大切なんです(上手く行っている商店街は結構頑張っている若手グループがいることが多い)。


ちょっと唐突で情緒的になりますが、私は街が発展する条件は「洒落ていること(あえて漢字にします)」だと思います。もっと簡単に言うと「若い女性が来る」、「デートスポットになる」、これだと思っています。人を引きつけるもの、人がお金を出すものは何かというと「モノ」よりも「雰囲気」だと思うわけです。そこに行けば非日常的なお洒落感が味わえる、これが大切だと思うわけです。そういうのに一番敏感なのは若い女性です。街にあるちょっとした小物の店とか、欧米風のカフェなど総じてそういう小洒落た感じに女性は引きつけられます。あと、若い女性は比較的購買力が高く、お洒落に対するこだわりが強いということもあります。これはデパートという存在は全体が女性用に出来ているのを見ても明らかです(大体1階から4階くらいまでが女性服。5階に申し訳程度にモノトーンな男性服があって、それより上は子供用。しかも、デパ地下もある。)。


ちょっと話が飛びましたが、若い女性には購買力があって、その購買力は「街や店舗が醸し出すお洒落感」に向けられることが多いと思います。そして、若い女性が集まるようになると、自然の摂理として野郎も集まるようになります。だから、私は街が発展する条件は「若い女性が来たくなるようなお洒落感」を出すことだと思っています。そのやり方は色々あると思います。決して豪華一点主義でやる必要はなくて、例えばレトロな感じを出すとか、近隣のデートスポットになりそうなところと上手く組み合わせるとか、まあ色々です。


そうやて見ていくと、東京の街で「ここ上手くいってるね」と太鼓判を押せるのが吉祥寺だろうと思います。あの街はとても商店街が賑やかです。大型デパートもありますが、それだけに還元できない何かがあの街にはあります。かといって、別に特別なものを売っているわけではありません。私が大学生時代に行っていた「いせや」という焼鳥屋は今でも雑多な感じがする普通の焼鳥屋ですし、商店街の中にある酒屋も別に何か変わったものを売っているわけではありません。いわゆる小物屋で売っているものも特別なものがあるわけではありません。ただ、あの街は全体として何処か小洒落た感じを醸し出すのに成功しています。今でも若い人達は「ちょっと吉祥寺に」という共通認識があるのでしょう。学生がもともと集まりやすいというメリットはあるのでしょうが、やはり三鷹でも、西荻窪でもなく吉祥寺に人が集まるだけの何かがあるのだと思います。私にはまだはっきりとは見えていないのですが、吉祥寺のサクセス・ストーリーを探ることが「まちづくり」というテーマに直結するんじゃないかな、そう考えたりします。