靖国神社参拝、私は結局のところ「決め」の問題ではないかと思っています。どんなに議論しても纏まることはありませんし、「あー言えばこー言う」の論理が完全に出来上がっています。最後は「えいっ!」の世界で決め、その決断について責任を取る、それでいいと思うのです。そういう意味で、私は小泉総理の手法自体は「まあ、そうやるしかなかろう」と思うわけです(決断の中身には賛同しているわけではありませんが)。小泉総理は「議論してもムダ」くらいに考えている可能性が高いです。


振り返って、私自身の考えは靖国神社の非宗教法人化+A級戦犯分祀が一番良いのだと思っています。まず、どう考えてもおかしいのが「靖国神社は一宗教法人ですから政府は立ち入れないのです」といった種の議論です。これは制度上はとても正論なのですが、その一方で現在の靖国神社は単なる一宗教法人の枠を超え、また、政治的指導者の靖国神社に接する姿勢も一宗教法人に対するそれを超えています。少なくとも「宗教法人だから」で議論を遮断するのはおかしいというのが私の見解です。「宗教法人法」とそれに基づく法律だけに依拠して、タテマエ論が罷り通っていては物事は一向に進みません。


かつて、靖国神社の国家護持を目指し「靖国神社法案」が出されたことがありました。ちょっと私の視点とは違う視点から提出されたものですが、靖国神社を非宗教法人化するという発想は似たようなところがあるので、ちょっと見直してみたいと思います。


(昭和54年に衆議院を可決し、参議院で廃案になった靖国神社法案)



まあ、簡単に言うと、以下のような要素が主たるものです。

● 靖国神社は戦没者等の英霊に対する尊崇の念を表すため、その遺徳をしのび、慰め、その事績を称える儀式行事を行う(第1条)。

● 戦没者の範囲は総理大臣が決める(第3条)。

● 靖国神社を宗教法人から一般法人化する(第4条)。

● 靖国神社は教義を持ったり、信者の教化を行うなどの宗教的活動をしてはならない(第5条)。

● 役員の任命は総理に権限がある(第12条)

● 戦没者名簿の奉安、戦没者の遺徳をしのび、慰めるための儀式行事を行う、戦没者の事績をたたえ、感謝するための儀式行事を行う、施設維持管理等が主たる業務(第22条)。

● 国による経費負担(第32条)


何と言えばいいのか難しいのですが、とても簡単なつくりの法律です。スパッと宗教法人性を切り捨てているところは小気味が良いくらいです。故に靖国神社の活動が制限されるところが大きいため、反対が強く参議院で廃案になったというのが経緯です。それと憲法第20条にも反するという批判がありました(つまり、国が靖国神社の宗教法人性に介入するということで「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」とした憲法第20条3項に反するということ)。


この法律が今、実現できるなら、相当のことが可能になるでしょう。「宗教法人性」を根拠に種々の議論を切り捨てることは出来なくなり、国が責任感を持ってすべての出来事を考えるようになると思います。


ただ、最初にブチ当たる難関は、上記にあるように「現在、宗教法人である靖国神社の宗教法人性に介入することは憲法に反しないか」ということです。そして、次に当たる難関は、「戦没者慰霊という行為はそもそもが宗教的活動に当たるので、そういう任務を負ったまま非宗教法人化するという法律の構成自体が大きな矛盾をはらんでいるのではないか。」ということです。


どちらも大きな問題ですね。今すぐに答えは出ないでしょう。ただ、役人をやっていた私の直感からいって後者の問題はクリアーできるのではないかという気がしています。何をもって宗教と呼ぶかの問題ですが、例えば私が祖父祖母の墓に参る行為は宗教的行為でしょうか。ちょっと違うような気がします。そのあたりの常識的な感覚からスタートしていけば、クリアーできるのではないかと思います(ただ、靖国神社にある鳥居とか、その他諸施設がそのまま維持できるかというと若干の改築が求められるのではないかと思いますが)。むしろ、問題は前者です。これを乗り越えるのは至難の業ですね。あまり良い知恵がありません。単なる行政的な措置(宗教法人認可の取消処分的なかたち)として強引にやってしまうか、憲法改正まで待つか、くらいしか思い浮かびません。正直なところ、どれも筋が悪いです。


本来なら「A級戦犯分祀」のみでもいいのですが、A級戦犯の御子孫の方と靖国神社の自発的な意思としてそれを期待するのは難しいと確信しています。あの板垣征四郎陸軍大将(A級戦犯で死刑)の息子板垣正参議院議員が奔走してもダメだったわけですから(自分の父を靖国神社の祭祀の対象から外すというミッションを背負った板垣議員の心中、私の想像するにはあまりあります。)、そんじょそこらの人間が頑張っても厳しいのではないでしょうか。このあたりは私は相当に現実的に考えたいと思うわけです。


やっぱり分祀するためには、国が責任を持つかたちでやるというスタイルにならざるを得ないと私は思います。品のないやり方であることは分かっていますが、希望的観測だけで「分祀すればいいじゃないか」とだけ言って、その方法論を言わないのはとても無責任な行為です(えてしてこういう姿勢は知識人に多い)。「分祀」に至るためには何処かで宗教法人性の壁を突き破らなくてはなりません。それは靖国神社の問題を越えて、非常にゆるゆるな宗教法人に対する規制強化というもっと広い視点からも有益だと思うわけです。だから、私は「非宗教法人化」という選択肢に魅力を覚えます。


じゃあ、分祀するならどういう対象の人を外すか、ということになりますが、これがまた難しいのですね。純粋に「戦没者」という区分でやっていければいいのでしょうが、ここには書ききれないくらいの多くの事例が頭に浮かびます。我が福岡が生んだ廣田弘毅首相は靖国神社に祀る対象なのか、梅津海軍大将は?、白鳥駐伊大使は?、大島駐独大使は?と思っていくだけでなく、そもそも、空襲で死んだ人は戦没者じゃないのか、みたいなことまで考え始めるとすっかり整理が付かなくなります。今の靖国神社側の説明(最新号の文芸春秋にあったような)も全然説得的ではありません。これについてはまた別途考えてみようと思います。


結構、長々と書いたわりには全然詰まってないですね。感性だけに依拠した部分が多々ある点については御寛恕の程を。