北朝鮮人権法(正確には「拉致問題その他北朝鮮当局による人権侵害問題への対処に関する法律案」)が与野党の合意で成立しました。民主党が「脱北者の保護及び支援」について前向きな規定を設けたことについての批判が非常に多いようです。民主党の長島昭久議員のブログ(http://blog.goo.ne.jp/nagashima21/ )は同法反対派の方の書き込みで一杯です。


批判派の方の論理を大まかに纏めると以下の2つになるでしょう。

● 国内にもっと困っている人がいる。公費で脱北者を養う意味が分からない。外国人一般に比して、脱北者を特別待遇する理由が不明。

● 脱北者に工作員やテロリストが紛れ込んでくる可能性。

まず、この法律が何故作られたかというと、第一条(目的)にもあるとおり「我が国の喫緊の国民的な課題である拉致問題の解決をはじめとする北朝鮮当局による人権侵害問題への対処が国際社会を挙げて取り組むべき課題であることにかんがみ、北朝鮮当局による人権侵害問題に関する国民の認識を深めるとともに、国際社会と連携しつつ北朝鮮当局による人権侵害問題の実態を解明し、及びその抑止を図ること」です。北朝鮮が行っている拉致を始めとする人権侵害を解明し、抑止を図ることが目的だということはまず押さえておきたいと思います。まあ、私はこれ自体は特に問題ないと感じています。


以下、具体的な規定なのですが、実はこの法律には非常に「努力規定」が多いのです。以下、見ていきましょう(条文は簡略化してあります。)

● 第二条(国の責務):国は拉致問題解決のため、最大限の努力をする。
2 拉致被害者の安否等について徹底した調査を行い、その帰国の実現に
最大限の努力をする。
3 拉致問題に関し、国民世論の啓発を図るとともに、その実態の解明に
努める。
● 第三条(地方公共団体の責務) 地方公共団体は、拉致問題等に関する国民世論の啓発を図るよう努める。
● 第四条(北朝鮮人権侵害問題啓発週間) 北朝鮮人権侵害問題啓発週間を設ける。
2 北朝鮮人権侵害問題啓発週間は、十二月十日から同月十六日までとする。
3 北朝鮮人権侵害問題啓発週間の趣旨にふさわしい事業が実施されるよう
努める。
● 第五条(年次報告) 毎年、国会に、拉致問題の解決等に関する政府の取組についての報告を提出し、これを公表しなければならない。
● 第六条 (国際的な連携の強化等):政府は、拉致被害者、脱北者等に対する適切な施策を講ずるため、外国政府又は国際機関との情報の交換、国際捜査共助その他国際的な連携の強化に努めるとともに、これらの者に対する支援等の活動を行う国内外の民間団体との密接な連携の確保に
努める。
2 脱北者の保護及び支援に関し、施策を講ずるよう努める。
3 第一項に定める民間団体に対し、必要に応じ、情報の提供、財政上の配慮その他の支援を行うよう
努める。
● 第七条(北朝鮮当局による人権侵害状況が改善されない場合の措置):拉致問題等について改善が図られていないと認めるときは、特定船舶入港禁止法、外為法による措置等を講ずる。


もう、「努力規定」のオンパレードです。例えば、条約の世界では「努力規定」ばかりの文章は拘束力がないので条約ではなく「宣言」的なものになります。結局、何かを拘束する義務規定は啓発週間を設けること(これも内容については努力規定)、年次報告を出すこと、北朝鮮がけしからん時は制裁措置をやることです。つまり、誰がどう言おうと、この法律の核の部分はやはり第七条になるというのが正しい法の読み方でしょう。逆に言うと、第七条がないのならばこの法律は「拉致問題その他北朝鮮当局による人権侵害問題への対処に関する政府の方針」でも良いわけです。

では第七条をよく読んでみましょう。かみ砕いて説明すれば、日本として改善がないと認めるときは、万景峰92号の日本への入港禁止(特定船舶入港禁止法によるもの)や北朝鮮への支払い、資本取引、輸出入等を許可制(事実上の禁止)する(外為法によるもの)といった措置が講じられるというものです。これで日本から高級食材が万景峰号経由で北朝鮮に行ったり、円や外貨の直接の送金をしたりすることも出来なくなるわけです。中国経由での迂回までは禁じられないので実態的な効果がどの程度のものになるかは分かりませんが、直接のルートが閉ざされることは直接的にも、間接的(政治的メッセージ)にも相当の圧力になることは否めないでしょう。特定船舶入港禁止法や外為法においては、このような北朝鮮に対する制裁措置は閣議決定が必要とされているので、何処まで行っても最後は政府の胸先三寸にかかってくることは間違いありません。若干気になるのが「北朝鮮当局による人権侵害問題への対処に関する国際的動向等を総合的に勘案し」の部分です。何を指しているのかは分かりませんが、「韓国で人権問題が盛り上がってないから」、「中国で盛り上がってないから」、「アメリカが北朝鮮人権問題に真剣でないから」という要件があればやらないということを意味しているようにも読めます。もしかすると、この箇所を根拠に、結局は複数国間、多数国間でないとやらないということなのかもしれません(厳密に言うと、仮に単独では制裁をやらないということを強く含意するのであれば、日本単独での制裁のために2004年に新設された「外為法第十条第一項の規定による措置」である必要はなく、一般的に「外為法の諸措置」と言及すればいいのであって、「そのあたりはなかなか苦しいかもね。議員立法だからいいか。」と思ったりします。)。ただ、「何をすれば(しなければ)引き金が引かれるか」ということが明確になっているので、日本政府の裁量の余地は(若干)減少し、北朝鮮への圧力の度合いが(少なくともメッセージとしては)増したと言えるでしょう。まあ、あれこれ書きましたが、義務規定でありつつも「制裁を実際にはやらないための根拠」はある程度用意されている、ただ政治的メッセージとして、この法律は使い道はあると言っていいでしょう。あとは運用の問題です。


その上で、批判の多い第六条2の「政府は、脱北者の保護及び支援に関し、施策を講ずるよう努めるものとする。」という規定ですが、正直なところ、この規定で「脱北者を受け入れる」とまで読み込めるわけではありません。まず、繰り返しになりますが、この規定は「努力規定」に当たります。脱北者がいたら必ず受け入れなくてはならないという規定ではありません。また、「脱北者」というのはすぐ上の第六条1で定義していますが「北朝鮮を脱出した者であって、人道的見地から保護及び支援が必要であると認められるものをいう。」となってます。したがって、人道的見地から保護及び支援が必要であるとわが国が主体的に認めない限りはここで言う「脱北者」にはならないのです。普通に考えれば、きちんと脱北者のスクリーニングくらいはやるでしょうし、ましてや受入れともなれば尚更です。日本政府をもう少し信用していいと思います。この規定を批判する人の声がどうしても私にはリアリティを持って聞こえないのです。言葉尻を捉えて批判しているように聞こえるのです。ちょっと私は考え方が緩いんですかね。


実は、それよりも私が気になるのが第六条3「政府は、第一項に定める民間団体に対し、必要に応じ、情報の提供、財政上の配慮その他の支援を行うよう努めるものとする。」の方です。努力規定で、かつ「必要に応じ」となっているので、相当後ろ向きな規定ですが、それでも脱北者支援団体にお金を出しましょう、支援しましょうと言っているわけです。何をするんでしょうか、これって。闇夜に隠れて、脱北者を北京の外国人学校に押し込むことに日本がお金を出すのでしょうか。基本的に脱北者が逃げるのは中国、中国では脱北者支援団体の活動の大半は非合法かスレスレのところにあります。何をするんでしょうね、疑問です。


あと、もう一つ根本的な疑問があるのです(多分、これが一番大きいです)。こうやって脱北者を保護、支援したり、脱北者支援団体を支援することがこの法律の目的である「北朝鮮当局による人権侵害問題に関する国民の認識を深めるとともに、国際社会と連携しつつ北朝鮮当局による人権侵害問題の実態を解明し、及びその抑止を図ること」に繋がるかねぇということです。論者によって繋がるという人と繋がらないという人がいるでしょう。ちょっと例を挙げてみましょう。脱北者がいるとします。品行方正でスパイでもなく立派な脱北者だとします。政府がこの人を保護、支援し、この人を支援する民間団体にも支援したとします。これが上記の目的を達成することに繋がりますかね。屁理屈っぽいですが、脱北者に対する締め付けが厳しくなり人権状況が悪化するかもしれません。脱北者を保護したら、その人を片っ端からテレビにでも出して意識啓発をするのでしょうか。そんなことは今でも可能です。あまり誰も言いませんが、私はこの第六条2及び3は何となく法の目的そのものとマッチしない規定なんじゃないかという気もします。


最後に、第六条2及び3の外交的な意味合いです。人によっては、北朝鮮の体制が崩壊する時点で、日本が制裁ばかりやっていたら、一番影響の大きい対中国、対韓国の関係で批判されるから、これくらいのアメは言い訳として用意しておいた方がいいという配慮に言及します「圧力だけじゃないのよん、きちんと対話とアメも用意したのよ」と言い訳できるタマを持っておかないと、いざという時に親北朝鮮の中国、ロシア、韓国あたりから批判されるということのようです。私は「多分、この程度の規定ではそういう言い訳にすら使えないので、外交的な言い訳材料にはならない。」と思います。そんなことを本当に考えている人がいるとしたら、相当にナイーブです。どうせ、北朝鮮が崩壊したら、韓国などでは反日批判は起こるのです。私は、今から将来来るべき事態(北朝鮮の体制が維持できなくなる)に対する、逃げの材料をあれこれ探しておく必要はないと思うのですが、それは長期的展望がないと批判されるのでしょうか。