● 10日目(3日):シェーカル(又はニュー・ティンリー)→エベレスト・ベースキャンプ
 シェーカルから中尼公路を離れて、エベレスト・ベースキャンプに向かう。途中、入域料として一人65元。ここまで来ると「いやー、地の果てだ。」と思う。あまり道は良くないが、かといってどうしようもないくらい道が悪いということでもない。何度か峠を越えながら、次第にエベレストが近づいてくる。景色も壮大である。これだけでも「あー、来て良かった。」と思える小生は単純な部類に入るだろう。勿論、高山病による頭痛付ではあるが。

 エベレストのベースキャンプに着く。当然、こんな時期にベースキャンプを張っているはずもないので単にだだっ広い平地が広がっているだけである。ただ、そこにはチャイナ・ポストの事務所がある。夏はきっとポストが開店して、ベースキャンプから「今、エベレストを見ながら君のことを想っています。ジュ・テーム。」といったラブレターを出す輩がたくさんいるのだろう。それはそれで良いことである。

 この日はベースキャンプから少し戻ったところにあるロンブク寺のゲストハウスに泊まる事にする。夏はきっと観光客で賑わっているのだろうが、正月三が日に来るのは我々だけのようで、したがって暖炉も灯してはくれなかった。ゲストハウス20元。ロンブク寺から見る夕暮れ時のエベレストは何とも言えない味わい深さがあった。暫く静かに日が暮れるまでエベレストを眺め.....ていたら、また、腹を壊す。少年達は小生がうんうん唸って苦しんでいる傍で鬼ごっこのようなことをやっている。この空気で走り回れるとはどういう心肺機能をしているのか関心がある。そういえば、チベタンが北京に行くと空気が濃くて眠くなるそうである。その原理はよく分からないが、ともかくチベタンの心肺機能は高い。

 さらにここで困ったのが、ロンブク寺周辺で何処かで食事をするところがあるかと思ったら、ないのである。民家で御馳走になることも考えたのだが、なんとなく機を逸してしまった。仕方ないのでランクルの仲間、中山さんからククレカレーのレトルトを恵んでもらう。手持ちのクラッカーにククレカレー、決して組み合わせが良いとは思わないが、まあ、ここは何かお腹に入れて寝ることが大切だと思い、味はともかくとして空腹を満たすために食べる。

everest

 夜になるとすることもないので寝る。しかし、この晩は最悪だった。高山病が悪化して、頭痛、喉の渇きが最高潮に達してしまい、全く寝れなかった。ペットボトルの水を飲もうと思ったら...、凍ってる(笑)。最悪に最悪の積み重ねである。仕方ないので自分の体温でペットボトルの水を溶かしてチビチビ飲む。うーん、俺ってこんなところでサバイバルだぜー、と思う暇もないくらい辛い夜だった。ともかく寒さと高山病でのた打ち回った一晩だった。


● 11日目(4日):エベレスト・ベースキャンプ→ダム(中尼国境の最後の町)
 あまり寝れないまま、朝を迎え、ほうほうの体でロンブク寺を離れ少しでも早く下界の方に向かう。高度が少し下がると体調が戻ってきた。最低限、食えるメシが出るところまで降りて、まずは朝を食べる。元気が出る。中尼公路まで戻り、後は国境までひたすら荒野を駆け抜ける。最後の高地地点タン・ラ(5050㍍)を過ぎると、突然、車は高度を下げ始める。もうヒマラヤ山脈南方に出てきた証拠である。チベット高原を抜けている間はずっと木のない風景だったが、高度を下げるに従って木のある風景になり、周辺に緑が溢れ、瑞々しさが出てくる。なんてことないように思うかもしれないが、木のある風景を見るのは心が和むのである。木々が溢れる風景がこんなに素晴らしいことかと実感した。

 ここで小生は重大な問題に気付く。中山さんから「緒方さんは査証は何処で取ったんですか?」と質問されたのである。「いや、中国は15日間は査証免除だから...」と答えると、中山さんから「いや、あれはチベット自治州は対象外ですよ。チベット自治州に入るときは依然として査証は必要ですよ。」と言われた。ショックである。ここに至るまで知らなかったのが幸福だったくらいである。つまり、小生はここに至るまで、非開放地域をパーミットなしで旅行しているのみならず、必要な査証すら持っていない二重の意味で非合法だったのである。これから国境が近くなるにつれ何度かチェックがあるだろうにどうしようかなあ、さすがにラサまで帰れとも言われないだろうから罰金かななんてことを思う。

 そうこうしている内に車はどんどん高度を下げ、ニャラムという街を過ぎ(ここで一回チェックあり。何の指摘もなし。)、19:00頃、最後の中国の町ダムに着く。ここで4日間、一緒に旅をしたチベタンの運ちゃんともお別れである。丁重に礼を言う(と言ってもボディ・ランゲージと謝謝だけ)。

 しかし、国境は18時までしか開いてないらしく、国境のところで「明日来い。」と追い返される。できれば、この日のうちに国境を越えて、夜、タクシーでもいいからカトマンドゥに行きたかったのだがちょっと残念。時間が限られていてその日のうちに国境を越えたい人はこの点要注意である。ダムの街まで来ると、高度も下がるし、気候や風景は完全に南アジアになっている。街の風情は当然、チャイニーズだが、街中にネパールから入ってきたタタ(インドの財閥)の車が走っていたりして、何となく「あー、ヒマラヤを越えて南アジアに抜けてきたんだなあ。」と感慨深いものがある。国境のすぐ隣の宿に止まる。一人30元。


● 12日目(5日):ダム→(国境越え)→コダリ(ネパール側最初の町)~カトマンドゥ
 朝一で国境検査。査証がないことを咎められるかと内心不安で一杯だったが、幸運なことに検査官はまだ若いお姉さん。すっとぼけた顔をしてパスポートを渡す。お姉さんは何度かパスポートを精査していたが、査証のないパスポートの事情が理解出来なさそうで、不思議そうな顔をしながらこちらを見る。小生はさっさとやれ、俺は急いでいるんだという顔つきをする。すると、ポンッと判を押してくれた。経験値の低い検査官で幸運だった。国境を越えてからネパール側までは数キロ坂を降りなくてはならない。その移動を専門にやっているランクルに乗り込む。10元、結構、高いものである。

 ここで財布を見直すと、アモイで3万円交換した人民元がまだ結構残っている。3000キロ近くチベット地域を縦断してきたのにその程度である。チベットは物価が安かったことを改めて実感する。

 最後に中国からネパールに抜ける友誼橋を越えると、そこに広がるのは全くの別世界。インド・テイストの漂う街コダリであった。南アジア圏特有の「パラララパラララ」というクラクションを鳴らすタタの車がうるさい。普通だと、国境付近というのは両国の文化が少しずつ交わりながら次第に変化していくような感じがすることが多いのだが、ダムとコダリでは全くの別世界であると感じた。人種も全くといっていいほど異なる。国境を挟んで連続性はなく、むしろ完全な断絶を感じた。それは取りも直さず、中国が対チベットで厳格な国境管理政策をとっていることの表れに違いないと勝手に解釈した。

 コダリではまず、査証を取る。他の三人はネパールに長く滞在するので30ドル、小生は所詮3日間なのでトランジット・ビザで5ドル。ちょっと得をした気分になる。


 コダリからカトマンドゥには直行バスは希少なので、まずは交通の要路バラビセまでバスで向かうため狭いタタのバスに乗り込む。50ルピー(1ルピー=1.7円くらい)。天井が低いのに凸凹道を行くので何度も頭をぶつける。ここで気付いたのは、コダリ周辺の山岳地帯はマオイスト(共産主義者で、恐らく「農村から都市を包囲する。」という毛沢東主義を信奉している反政府主義者。)が多く、反政府活動をやっているせいか、非常にチェック・ポイントが多いのである。30分に一回のペースでチェックが入って、軍人さんが怖い顔をしている。ネパールという国の政情が即座に理解できた。

 コダリからは風景がモンスーン地帯になり、渓谷の間の狭い地帯に立派な棚田が一面に広がる。結構、感動的である。もう、厚着をする必要もなくなる。こんなところにも観光客はいるようで、降下距離世界最長のバンジージャンプができる所もあった。ネパールまで来て、誰がバンジージャンプをやるのかは知らないが、既にバンジージャンプは世界的に市民権を得たレクリエーションのようである。バラビセまで来ると、昨日までのチベットの枯れた風景などもう遠い昔のように感じられてしまうから不思議である。バラビセでカトマンドゥ行きに乗り換える。75ルピー。

 その後は淡々と農村風景が続く中をバスは抜けていく。カトマンドゥが近づくにつれ、交通渋滞がひどくなり、結局カトマンドゥに着いたのは19:00頃。ガイドにはコダリ~カトマンドゥは5~6時間程度となっているがもっと遠かったような気がする。カトマンドゥではダルバール広場という旧王宮周辺の歴史的建築物が多い地域にあるスガート・ホテルに泊まる。一泊300ルピーで旧王宮等を眺めることができ、快適な部屋だった。夜はここまで旅を共にした仲間3人と定番のカレー。久しぶりに豊かなメシを食べる。嬉しい。やっぱり、ここでもアメリカ人は野菜カレーを食っていた。

● 13日目(6日):カトマンドゥ
 朝からダルバール広場周辺をウロウロする。歴史的な建築物と人々の喧騒が上手くマッチしている。市場も巡ってみると喧騒の中でも小生を見つけて、タンカとか茶とかサイババ瞑想ツアーとか色々なものを売りつけようとしてくる。それだけでなく「葉っぱ吸いませんか、20ドル。(日本語)」みたいなおじちゃんも時々やってくるし、しまいには「おっぱいモミモミ、50ドル。(同じく日本語)」というのもいた。誰がこんな日本語を教えたのか、さすがに呆れる。現地にすむ人曰く、その手の店は結構あるそうである。なお、一番の良いお土産はタンカだろう。2500ルピー(もっと値切れるはず)も出せば、相当良いものが入手できる。


 近くのネパール銀行(レートが一番良いらしい)でお金を換えてから、チャリンコを借りる。75ルピー(マウンテン・バイクなら120~150ルピーだった。)。この日はチャリでカトマンドゥ観光である。ガイドの地図を見ながら、目指すは街の郊外のパシュパティナート(ネパール最大のヒンドゥー寺院)、ボダナート(チベット・チョルテン(仏塔))である。まあ、カトマンドゥは渋滞も激しいし、道がそんなに良いわけではないからチャリ漕ぎは楽ではなかったが、何とか街の中心から5キロくらい離れたパシュパティナートに行く。ここは巡礼地のようで寺の周辺も賑やかである。ここはヒンドゥー寺院なので、これまで見てきたチベット寺院とは全然異なる。入場料は最近まで75ルピーだったのが、値上げして250ルピー。小生は「I'm a student. Is there any discount?」と嘘八百で食い下がるが、全然通用せず250ルピーを払う。観光地の値上げは世界的な趨勢である。パシュパティナートではやっぱりヒンドゥー寺院らしく、川沿いで火葬をやっていた。死体を藁等で覆って、燃やしてそれをそのまま川に流すのである。鳥葬のチベットとは異なるが、発想は同じかもしれない。パシュパティナート自体立派な寺院であるが、残念なことに建物の中に入れるのはヒンドゥー教徒だけである。だから、我々は外から見るだけになる。それだけでも価値はあるからお勧めしたい。


 その後、パシュパティナートから2㌔くらい北上して、チベット・スポットのボダナートに行く。幹線道路のすぐ脇にあるので分かりやすい。これは映画「Seven Years in Tibet」でも出てきた巨大なチョルテンである。仏塔の上の方に巨大な目玉が書いてあって、並々ならぬパワーを感じる。ちなみにボダナートの巨大目玉をほぼ同じ図柄の目玉を昔、ウズベキスタンのボハラのモスクやメドレセ(宗教学校)で見たことがある。何の関係があるのかは検証のしようもないが、つながりがあるような気もした。ボダナートは何故か入場料を払わなくても入れた。ここはチベット仏塔なので、当然チベタンの僧がいるのだが、厳しい環境でチベット仏教を信仰している中国のチベタンと比較すると、恵まれた環境にいるせいか何となく真剣味に欠ける。ボダナートでも五体投地をしているチベタン僧はいるのだが、服が汚れないように五体投地用の板(ツルツル滑るようニスを塗ってある)が用意されていて、そういう板の上でのうのうと五体投地をするのである。服がボロボロになろうとも砂利道に身を投げ出して五体投地をする中国チベタンとの違いを感じた。しかも、ネパールのチベタン僧は英語なんか話せちゃったりして、必要以上にフレンドリーで垢抜けてたりしてこれまた拍子抜けである。これじゃ、国外からチベット独立の機運など高まるはずがない。


 ボダナートの周辺にはチベット寺が10近くあって、巡ってみたが、どれもこれも小奇麗でよく整備されていて、しかも、僧達が住む宿舎もアパートみたいで「変なの」と思わずにはいられなかった。ネパールで見るチベット仏教を以って、チベタンを理解してはいけない。端的に言うと、チベット寺とネパールに植生する亜熱帯植物(赤い花とか)は似合わないのである。

 その後、カトマンドゥ市内に戻ろうとすると、とてつもなく渋滞していることに気付く。さすがに尋常じゃない渋滞でおかしいなあと思いながら、渋滞の脇をすり抜けながら進んでいったら、ある地点から突然公道に車がいなくなる。「こりゃ、良かった、良かった。」とノーテンキな小生はそのままチャリを進めてカトマンドゥに戻っていたら、突然、警察のおっさんに呼ばれて、「デモ隊がいるから交通封鎖しているんだ。あっち行け、馬鹿!」と言われて道路から排除される(笑)。今、ネパールは民主化運動が激しく、人気のない王制と学生運動や政党が対立しており、その日も学生達が激しくデモを繰り広げていたのである。現場に辿り着いたときにはもうデモは終了していたが、火炎瓶の跡とかが痛々しい。相当、大胆に民主化に舵を切らない限りはこの流れは止まらないだろう。

● 14日目(7日):カトマンドゥ→バンコク
 最終日ということで、朝早起きして、カトマンドゥ市内のもう一つの有名チベット・スポット、スワヤンブナートに歩いていく。市内から歩いて2~3キロといったところだろうか。これもチョルテンで小高い丘の上にある。天気が良い時期ならカトマンドゥ市内が一望できるはずである。詳細は省略するが、見るだけの価値があることは間違いない。入場料は、ここでも求められなかった。

 ということで、これでチベット・ネパール旅行も終わりかと思いながら、空港に向かう。しかし、この時辺りからお腹の調子が極端に悪くなる。何が悪かったのかと思い出すと、ボダナート周辺で食べたゆで卵、前日夜、汚いカレー屋で食べたカレー、朝食べたサモサ等、色々と思い当たる節はあるのだが、いずれにしてもこの腹の壊し方は並々ならぬものがある。ほうほうの体でタイ航空に乗り込むが、フライトの間の大半はトイレを占拠してしまっていた。席に戻ってもおならが出るし、時に「うっ」と来ることもある。始めは色々と周囲の人に気使いしていたのだが、途中からはそんな恥じらいもなくなってしまった。迷惑な客だったに違いない。ともかく普通に長時間、席に座っていられない状態であった。バンコクの空港でもラウンジでの待ち時間の大半はトイレ。ラウンジで提供されるミネラル・ウォーターを大量にトイレに持ち込んでひたすら水を飲んでは、下から際限なく出て行く水分の補給をする。

● 15日目(8日):バンコク→東京
 最終的に1月8日早朝に帰国した時にも下痢は止まっておらず、初めて成田空港検疫所にお世話になる。まあ、その後連絡もないから法定伝染病のようなものではなかったということである。

 ここで旅行は終わりなのだが、後日談がある。実は1月9日からジュネーブ→ブリュッセル→ワシントンと出張する用事が入っていたため、8日午後から出勤する。お腹の調子は依然として悪い。何とか出張準備を整えて、9日朝にはいざジュネーブへ。ルフトハンザの機中でも結構、トイレにいる時間は長く、スチュワーデスのお姉さんに同情された。結局、ジュネーブでも暫くはお腹の調子が悪かったが、何とかジュネーブで封じ込めることができた。ジュネーブで体重を量ったら、ベストの75キロから71キロ弱まで減っていた。相当、体力を消耗した。ただ、出張自体は無難に乗り越えることができた。我ながら体力のある方だと感心した。