2001年9月11日以降、イスラムに関する議論が日本でも盛んになりました。今ではイスラムをある程度知らないと外交分野ではコメンテーターもできません。ただ、テレビで見ていると大方の議論は「底が浅い」と思います。


 私が外務省にいた際、中東を担当していたことがありました。たしか身上書に「ポストが空いているなら行きたい」と書いたら、案の定希望者もおらず配属になったという経緯だったように思います。当時も(そして今も)中東をやってみたいという人は外務省でもマイナーな部類に入るみたいです。当時の河野洋平大臣は稀有なことにイスラムに関心を持っていました。まだ、日本で中東が相対的に珍しい時代にイスラムに関心を示した大臣は先見の明のある方だったと思います。色々批判されたりもする方ですが、この一点に関しては非常に立派だったと思います。有識者と勉強して報告書(http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/islam/islam_12.pdf )まで出しました。この報告書はレベルが高く、今でも有益な視点を提供していると思っています(浅学な私は報告書には一切関与しませんでしたが)。


 そんな話はともかく、最近のイスラムの潮流は「原理主義(fundamentalism)」という言葉に体現されているような気がします。何か事件があると「原理主義者がやっている」という単純な議論に陥ります。さて「原理主義者」というのは何でしょうか。イスラムの教えに過剰なまでに忠実で、現代社会と切り離された世界観を提示している人達でしょうか。そうであれば、サウジアラビアは原理主義者の集まりです。というか、中東には原理主義者がウヨウヨしていることになります。原理主義者でないほうが珍しい存在になるでしょう。ちょっと違うような気もします。では、原理主義者とは「ジハード」と銘打って武力行為を行っている人でしょうか。あれはイスラムの原理からはちょっと遠いのではないかと思います。むしろ「過激主義者」とでも言うべき存在でしょう。「原理」主義者、使いやすくて手垢の付いた言葉ですが、あの言葉を正確に理解して使っている人がどれくらいいるかというと私は甚だ疑問です。


 そもそも、今の世界のゴタゴタはイスラムの原理を追求したから起こっているのでしょうか。欧米で起こるテロ行為というのはイスラム「原理」主義者が起こしているのでしょうか。よく見てみると、実はあのテロ行為は極めて欧米的現象だというのが私の意見です。少し長くなりますが、私のイスラム観も含めて説き起こしていきたいと思います。


 まず、イスラムというのは私は政治学的に言うところの「帝国」だと思っています。といっても「帝」がいてその支配に属する臣民がいて、という意味での帝国ではありません。政治学では、時に「完結した世界」を構成する政治体を「帝国」と呼ぶことがあります。例えば、清末期までの中国はほぼ完全な帝国を構成していたと思います。それと同じ意味において、イスラム世界というのは帝国ではないかと思うのです。コーランを少し学べば分かりますが、あれはイスラムによる規範が宇宙全体を支配していることを前提に成り立っています。イスラムが常に多数であり、その世界観が当然視される空間、それがイスラム世界だったと思うわけです。イスラム世界においてはキリスト教徒も税(ジズヤ)を払い、イスラムの世界観に反しない限りにおいて浮き島のようなかたちで共存することが可能でしたが、あくまでもそれはイスラム「帝国」の秩序の中での共存でした。


 イスラムの世界というのは常に主要な世界観を構成し、その中でイスラム規範が当然のように受け入れられているからこそ、問題なく運営されていくものだと思います。他の規範との抵触、調整ということはあまり念頭にないわけです。


 それが変化していくのが20世紀という時代です。イスラムがマイノリティになるという世界が出てきます。特に欧州では今度はキリスト教社会においてイスラムが生きていくようになります。これは本来、コーランがあまり想定していなかった世界です。社会全体がイスラムを当然視しない中でイスラムを貫いて生きていくことは楽なことではありません。ましてや、ムスリム移民が2世、3世になってくると、自分の出自とも切り離されてしまいます。


 マイノリティで、かつ先祖に対する記憶が希薄化する中で、個々のムスリムはイスラムを自己の中で再生産していくことが求められます。それはある意味、理想化された「想像の共同体」になるケースが多いわけです。現実のイスラム世界が如何なるものかというのとは一旦切り離され、自分の中で「自分が理想と考えるイスラム」、「あるべきイスラムの姿」を再生産していくプロセスが進んでいっているように思います。


(注:「想像の共同体」とはベネディクト・アンダーソンというインドネシア研究の学者がナショナリズムについて書いた書の名前ですが、同一の共同体に対する連帯化、所属感という意味ではインドネシアだけでなくあまねく共同体に適用可能なものだと思います。)


 それに相俟って、イスラム全体が欧米社会にともすれば従属的立場におかれていることへの不満が渦巻いています。「想像の共同体」と欧米社会に対するトラウマが一緒になっていく過程で、頭の中で我々の想像し得ない世界観がパーッと広がっていくのは分からなくもありません。今、テロだ何だといって欧米や中東で暴れている人の中には欧米で教育を受けた人が多いのですが、その人たちは本来の意味でのイスラム世界の落とし子ではなく、欧米社会において「想像の共同体」に生きている人だと考えるのが適当ではないかと思います。


 したがって、今、我々が「イスラム・テロ」として目の前にしているのはイスラムという共同体の産物ではなく、個々人の想像のイスラム共同体の産物なのです。そういう意味で、イスラムという世界が非常に個人化しているということが言えるのではないでしょうか。つまり、今、我々が直面しなくてはならないのは社会全体がイスラムを支える中に生きている人ではなくて、異国の地で個々が自由にイスラム世界を想像する中で新しい形態のイスラムが生まれてきているという現象だと思うわけです。


 今、イスラム・テロの原因と言われるもののキーワードは、(1)イスラムが支配的でない社会で生まれた現象、(2)各人の信仰の個人化、(3)「想像の共同体」、こういう感じでしょうかね。そうやって考えると、イスラムとテロを完全に切り離して考えることまではできませんが、かといってイスラムそのものに問題があると考えることはちょっと浅薄だなと思います。もう少し複雑なプロセスを辿った結果として、自称「敬虔なムスリム」がテロ行為に走っていると私は思います。


 そうやって考えるならば、最近、ローマ教皇のベネディクト16世がイスラムの伝統的な教えをひいて(というか、昔の教皇の発言を引用して)、その好戦的な性質を批判したというのもポイントが外れているなあと思います。中世、近世にイスラム勢力に痛い目に遭わされた教皇の時代と現代を比較すること自体、歴史認識が弱いです。当時のイスラムはたしかに野蛮に見えたかもしれませんが、同じくらい野蛮だったのが欧州側です(十字軍におけるサラディンの史記を読むとよく分かります。)。イスラムを理由にした現代のテロは、上記のとおり極めて現代的現象です。


 この件は個人的なテーマとして常に考えているので、もう少し思索をめぐらしてみたいと思います。