● 25日
 今日はヴァナゾール近郊の世界遺産、ハグパト修道院とサナーヒン修道院に行くことにした。マルシュルートカで行けないこともないが、もう面倒くさいのでタクシーをチャーターすることにした。昨日知り合ったおばさんと長女が案内役として同行してくれることになった。


 ヴァナゾールから車で1時間強くらいグルジア側に戻ったところに両修道院はある(両修道院は数キロ離れている。)。修道院の入り口等に世界遺産であることを示すものはなく、観光地としても整備されていないのだが、古い静かなときが流れている修道院であった。ただ、修道院としてはよく整備が行き届いており、その理由としては、ディアスポラとして外国に出て成功した在外アルメニア人からの寄付があるようである。特にアメリカに住むアルメニア人には経済的に成功した人も多い。最も成功しているのは、投資家のカーク・ケルコリアン(Kirk Kerkorian)だろう。彼は投資会社を経営し、クライスラー等の大株主になっていて、得た利益の一部を本国に還元している。ただ、一般の人が知っているアメリカで活躍するアルメニア人と言って最初に思い出すのは、歌手のシェールである。もう50歳くらいのシンガーで、小生が高校生くらいの頃には「If I could turn back time」が大ヒットしていた。最近では数年前に「Believe」が爆発的にヒットしていたので小生より若くても知っている人は多いと思う。小生の中ではシェールといえば「メタリカ(だったと思う)のメンバーと付き合っていた際、気に入られようとしてスタイルを維持するために手術で肋骨を何本か抜いた。」という色物の逸話がまず思い浮かぶのだが、とにもかくにも彼女は本名がシェリル・サルキシアンというアルメニア系である。まあ、そんなこんなでアルメニア人は世界中で活躍しており、そういう人からの在外送金がこういう宗教施設を支えているみたいである。


 両修道院はそれぞれの良さがあり眺めもいい。とても静かである。小生達のような闖入者がなければ、一日ずっと静寂が支配する世界だろうと思う。きっとアルメニア正教を信じている人にとっては感動的なものがあるだろう。ただ、ここでは文章でその良さをくどくどと書くことは、小生の手には余るので控えておきたい。


 さて、ヴァナゾールに戻った後、お世話になったおばさん達(結局、名前を覚えることはなかった)に御礼を言った後、夕刻になって、マルシュルートカでヴァナゾールからエレヴァンに向かう。まあ、変哲のない風景が広がる2時間強の行程だが、高原地域を抜けたので雪景色が綺麗であった。


 エレヴァンまであと30分くらいのところに来て、突然腹の調子が悪くなる。それはそれは加速度的に悪くなってきたのである。バスが激しく揺れるたびにお腹の流動度が高まっていく。いずれにしても降りるしかない。と思って隣を見ると、カリホは寝ている。

 「おい、腹の調子が悪いから降りるぞ。」。カリホは「おーそうか、じゃあ、俺はマリオット・ホテルに行ってるからな。」。何を言っているのだ、こいつは。何と友人甲斐のないヤツなのだ、と首を締めたくなった(その時、カリホが言いたかったのは「エレヴァン市内で目印になりやすいマリオット・ホテルで待っているから、用を足したら後で追っかけて来い。」という趣旨だったらしい。)。限界に到達しつつあったので、ともかくマルシュルートカを止めて降りる(カリホも降りた。)。しかし、そこは寂れたエレヴァン郊外。近くのパン屋でおばさんに「グジェー・トワレット?(トイレ何処?)」と聞くと、よく意味は分からなかったが「ニェート(No)」というフレーズは聞き取れた。「じゃあ、おまえは普段何処で出してんだよ。」と疑問に思いながらも、仕方ないのでパン屋の裏に消えて、トラックの影で用を足す。ホントに助かった。


 その後はエレヴァン市内に入って、少し街中を回った後に中心から400メートルくらい行った「ホテル・シル」に泊まる。しばらくシャワーも浴びていなかったので頭が痒い。シャワーを浴びて落ち着く。


 エレヴァンの中心は立派な石造建築で綺麗にライトアップされて、そこだけを切り離せばヨーロッパの何処かの街と思えてしまうくらいである。「たまにはイタリアンでも食うか。」とカリホとイタ飯屋っぽいところに入る。とは言っても、出てくるものでイタリアンなのはピザとパスタだけであり、食前のスープなどは思いっきり中東っぽいものであった。


 夜は街中で買ったコニャックといわゆる「乾き物」でカリホと乾杯する。コニャックはアルメニアの特産で、特に「アララート」という銘柄が有名である。1945年のヤルタ会談の際に振舞われて、かのチャーチルに「このコニャックを全部買い占めたいくらいである。」と言わしめたくらいのモノである。日本で買うと相当のお値段になるが、現地では10ドルくらいでかなり良いものが手に入る。しかし、何故かこのコニャックの会社はフランスのペルノ・リカール・グループに買収され、今はフレンチ野郎に支配されている。こういう国の特産品を外国人に売り渡すアルメニア人もバカであるが、きっと経済的混乱の時期の苦境に付け入って買い占めたフランス人にも不愉快なものを感じる。しかも、フランス人は「地理的表示(geographical indication)」の名の元に、アルメニア産コニャックにコニャックという名を使うことを禁じている。小生は、フランスのそういうところが大嫌いである。一般の人は、フランス人というと何となく理念と理想を語る人達だと思っているだろうが、その実、とてもお金に汚い人達であることを付言しておきたい。


● 26日
 朝、ホテルからエレヴァンの街を眺める。この時期、エレヴァンは毎日が曇っていて、しかも日が非常に短い。昼間だというのに、何となくずーっとすっきりしない天気が続く。ホテルはエレヴァンの中心にあるのだが、その眼下にはトタン屋根の家が続く。


 昨日は暗闇で気付かなかったが、ここはグルジアよりも中東度が高い。街の混雑振り、歩く人々の顔等、すべてが中東を想起させる。勿論、街中ではここでも「ハビービ、ハビービ」と切なく歌うアラブの歌が大音量で流れていてうるさい。所々でケバブを焼く臭いもしてくる。眉毛の繋がっているおじさん、おばさんもいる。どう考えてもここは中東である。まあ、数十キロ南に行けばそこは既にトルコやイランであるから不思議ではない。


 ただ、一点留意しなくてはならないのは、アルメニアとイランは国境を接していないということである。これだけだと「?」なのだが、この点は言い換えれば「トルコとアゼルバイジャンが国境を接している。」ということを意味しており、この地域の国際情勢を知るためにも非常に重要なのである。細かい地図を見ると分かるが、トルコはアゼルバイジャン(トルコ系)の飛び地ナヒチェヴァンと、非常に狭い回廊で繋がっている。細かい歴史は忘れたが、たしかトルコとイランとの間で国境を画定する際、トルコがナヒチェヴァンへの陸路の確保を強く主張したのではなかったかと思う。アルメニアとアゼルバイジャンが戦争になって、アルメニアがナヒチェヴァンに攻め込んだら、この回廊経由でトルコが介入して陸軍を投入することだって可能なのである。同胞アゼルバイジャンを守るために領土を確保しようとするトルコの執念を見る思いである。文章だけでは何のことか分からないと思うので、トルコ、イラン、アルメニア、アゼルバイジャンの国境付近の地図を見てもらうと、上記の話がよく理解できると思う。


 まあ、考えようによっては、アルメニアはロシアから中東へのゲートウェイであると言えるかもしれない。小生はいつも思うのだが、ロシア人というのはアラブ人と共通点が多い。まず、何事でも打ち出しはふっかける、しかも意地汚い、地面を掘ることで儲けているだけなのに不必要に威勢を張る、男性が働かず女性が一生懸命に働く、勇猛さを売りにしつつ実は気が小さい、総じて臭いなどなど、小生の知る限りロシア人とアラブ人の共通点は多い。


 今日はアルメニア正教の総本山エチュミアジンに行くことにする。今回、3つ目のユネスコ世界遺産である。カリホとマルシュルートカに乗っていく。このマルシュルートカだけはグルジアと差がない。エレヴァン市内から20キロくらい行くとエチュミアジンに着く。別に何の変哲もない寂れた街であるが、さすがにエチュミアジン教会の周辺は少し人が多い。勿論、入場料などない。全体としてよく整備されていると思う。きっとここでも在外アルメニア人からの寄付が貢献しているのだろう。


 さすがにもう教会の類はたくさん見たのであまり感動もしないが、その古さと教会が放つ歴史的重みはよく分かる。訪れるアルメニア人(含在外アルメニア人)は皆、感動を隠せないようである。ただ、エチュミアジンがどういうところかを細かく説明することは控えておく。小生の隣でカリホは、壁画に頭だけの天使が書いてあるのを見て、堕天使ルシファーとの関係について真剣に考えている。「リンタ、あの天使の図柄はイケてるぞ。」とか言いながら写真を撮っている。帰国後も、カリホはエチュミアジンについてさらに調べを進めて、その壁画の天使と堕天使ルシファーとの関係について小生に長々と説明してくれたが、正直なところよく覚えていない。ともかく、小生と着眼点が全く違うのである。


 夜はホテルの兄ちゃんが薦めてくれたアルメニア・レストランに行く。出てくるものは、ともかく中東と同じである。ケバブ、シャシリク(肉の塊を焼いたもの)等々肉料理(現地語ではホラヴァッツと呼んでいた)のオンパレードとパン、マッシュルーム、トマト、豆のペーストといった感じか。ただ、アルメニアのケバブ、シャシリクは美味い。これまであちこちでケバブ、シャシリクを食べた経験があるが、恐らくここが一番である。バターが微妙に効いていて、焼き具合も絶妙であった。これは中東経験が長いカリホも同様の感想を漏らしていたので、間違いないだろう。


● 27日
 今日は朝からエレヴァン市内のマテナダラン古文書館というところに行く。アルメニアは国が古く、古代アルメニア語で書いた歴史的価値の高い文書なんかがたくさん残っているのだが、如何せん保存状態が悪いのでどんどん朽ちていっている。そこに数年前、我らが日本のODA(政府開発援助)で古文書を復元させるための機材を供与したのだが、今回は勝手に我らが「視察団」と名乗って、その古文書館を訪問するということである。その実たるや、単なる面白半分なのだが、小生の名詞の肩書き「Assistant Director, Treaties Division, Ministry of Foreign Affairs」が役に立つかもしれない。マテナダランの受付で「我々は日本外務省で働いているものだが、以前、供与した機材の状況を見学したいと思って来た。」というと丁寧に案内された。どうせ、この面白半分の見学が公的なミッションかどうかなど誰も検証しないから、まあ、いいんでないかと思う。カリホは作業をしているお姉さん達の写真など撮っていて、どう見ても公的ミッションには見えない。



 古文書というのは勿論古い紙で作られているので、その復元には日本の和紙が非常に馴染むようであった。復元するための日本製の機器、そして、日本製の和紙が大活躍していた(その一方で、同じく供与したデジカメ系はあまり使われていなかった。)。古文書の破れているところや、無くなっている部分に和紙を当てて復元して、綺麗に製本しなおすというのが基本的な作業である。復元された古文書を見せてもらったが、それは立派なものであった。これで少なくともあと数百年は、この文書は存在し続けることができる。こういうのを見ると、日本人として嬉しくなるものである。使われていない機材があるという点はあるものの、ODA案件の評価としては、十分合格点を与えていいと思う。


 午後は宿を移す。この旅行中三回目のホームステイとなる。1泊15ドルくらいのオファーだった。街の中心からも近く、なかなか悪くない位置だったのですぐに移ることとした。今回の家庭は母1名に子3名のシモニアン家である。カリホと二人で「こういうケースでは、大体においてお父さんが飲んだくれで変な女を作って居なくなったんだよな。」とかジョークを言い合っていたら、本当にそうであった。息子は上からナレク(大学生。若干の英語ができる。)、ハコブ(10歳くらい)、タロン(7~8歳くらい)である。ハコブは恐らくヤコブ(ジェイコブ)のことだろうと想像がつくが、タロンというのは類似の名前がちょっとイメージできない。ナレクは明日から大学の試験だというのに、貴重な収入源である我々が来たせいで、部屋から一時的に追い出されて友人のところに泊まりに行かされていた。「悪いなあ」という気になる(ただ、試験の成績は良かったらしい。結果オーライだが、よかった、よかった。)。


 ハコブとタロンは、まあ、普通の元気の良い少年である。カリホと小生はなつかれてしまった。我々が持っているモノを片っ端から触ったり、いじったりしている。何故か分からないが、カリホの持っている三脚が気に入ったみたいで、三脚を持って家の中を走り回っている。しまいには、小生にジャンピング・キックまでかましてくる。なつかれていることの証とはいえ、少年が手加減なくキックをかましてくるのは結構痛い。



 なお、この家庭は父親がいないが、きっと普通のアルメニア人家庭だろうが、教育熱心である。ナレクはしっかり勉強して将来のヴィジョンを持っているし、ハコブとタロンも学業を疎かにしている気配はない。教科書を見せてもらったが、日本の小学校で教えることよりも遥かにレベルが高いことが書いてある。特に自国の歴史については相当詳しく教え込んでいるようで、歴史の教科書はシャレにならないくらい分厚い(多分、トルコのことがボロクソに書いてあるのだろう。)。この国もグルジア同様、しばらく頑張れば良い人材が育っていくだろう。


 夜は何故かハコブとタロンを連れて近所のバーに行く。相当に雰囲気のあるバーで周囲はカップルばかりなのに、我々はカリホ、小生、ハコブ、タロンの4名である。各テーブルは衝立で仕切られており、暗闇の中、カップル達は各々愛を語らっている。そういう中、ハコブとタロンはバーの中をウロウロしては、我々のところに「あそこのお兄ちゃんとお姉ちゃん、チューしてたよ。」とか丁寧に報告してくれる。終いには、小生も一緒に衝立を隔てた隣のカップルが何をやっているかを覗かさせられる。小生も20年近く前はそういう感じの少年だった。そう、小生は少年の頃、この手の悪戯をやらせたら実力者であった。近所の池の散歩道に大きな落とし穴を掘って、そこにカップルが来て落とし穴に落ちるなどという、昨今では珍しい悪戯をやる馬鹿な少年であった。ただ、今やもういい年したおっさんであり、ふと「オレはこんなところで何をやっとるのだ。」と不思議な気分になる。まあ、とどのところ迷惑な客だったということである。


● 28日
 今日は、今回の旅行の最後の世界遺産ゲグハルト修道院に行くことにした。カリホは別用があるので小生だけで行こうとしたら、宿のお母さんが「案内にハコブを付けてあげるから。一人で行くと危ないでしょ。」と親切にハコブを付けてくれた。「オレは10歳の少年に案内されなきゃいかんのか?」と思ったが、たしかに現地語ができる人間がいるのは損にはならないだろうと思ってハコブを連れていくことにした(というか、ハコブに連れられていくことにした。)。ハコブは何となく嬉しそうである。まあ、遠足気分なんだろうと思って、少しお金を渡して「お菓子とか好きなものを買って来い。」と言ったら、コーラのペットボトル2本しか買ってこずに釣りは小生に戻していた。いや、厳しく教育されてるなあと感心する。アフリカでは「コーラ2本買って来い。」と言ったら、何故かスプライト2本とマンゴーを買ってきたりするのが常だったのだが。


 マルシュルートカに乗ってエレヴァン市の郊外に出た後、バスに乗り換える。たしかにハコブは役に立つ。小生ともコミュニケーションはほとんど成立していないのだが、あれこれと誘導してくれるだけでありがたい。少なくとも一人ではこうはいかない。バスは1時間弱で郊外の町ガルニに着く。ここからゲグハルトまでは公共交通機関はない。…はて、困った。ガイドにはタクシーで行くことができるとなっているが、この冬の暮れにタクシーなどあるはずもない。ということで色々悩んでみたのだが、偶然通りがかったバスのおじさんが「往復15ドルでいいぞ。」と言っているようである。普通に考えると法外なのだが、バス1台を小生とハコブでチャーターするかたちになること、現地で観光した後、ガルニまで戻ってこれること等を考えると、それなりに帳尻も合うような気がしたのでバスを貸切にすることにした。



 大型バスを貸し切って小生とハコブだけでゲグハルトまで向かう。ゲグハルト修道院は山間の隙間にあるこじんまりとした建物であった。入場料はない。人影もほとんどない。勿論、世界遺産であることをうかがわせるものなど何もない。ここも多分に漏れず、静寂がすべてを支配している。カトリックとも、プロテスタントとも違う特殊な雰囲気が漂う。さすがにハコブも感じるものがあったのか、きちんとお祈りをしている。その後、ハコブは教会の中で拾った小石を小生のところに持ってきて、「日本に記念として持って帰れ。」と小生のポケットの中に突っ込んでいる。更には、教会の外で出ていた湧き水をペットボトルに詰めて、それも持って帰れと言っている。よく意味が分からなかったのだが、一応、ゲグハルトの石は小生の部屋に置いてある(さすがにペットボトルは途中で捨てた。)。記念といえば記念である。まあ、小生の部屋の中には得体の知れない舶来のものがたくさんあるのでその一部ということである。ゲグハルトは秘境という程辺鄙な場所にあるわけでもなく、首都エレヴァンから1時間強で行けるので、もしアルメニアに立ち寄ることがあったら、エチュミアジンと合わせて足を伸ばすことをお勧めする。


 ハコブはいつまで経っても小生の名前を覚えない。「リンタ」でいいと言っているのに、何故かそう呼べずに、自分が呼ばれていると小生が認識できないくらい変な言葉で小生を呼ぶ。大体、ロシアっぽい名前というのは「スキー」とか「オフ」みたいな言葉をつければ簡単に出来てしまうので、そういう名前で呼ばせてみるという可能性がないわけではないが、「リンタロフ」、「リンタスキー」…、さすがに外務省フランス語研修の小生にはロシア語的フィーチャーは似合わないし、ハコブがそれを覚えられるとも思えない。かといって、フランス的に「ピエール」にするのもこっ恥ずかしくて嫌である。姓で呼ばせるのも一案だが呼び捨てにされるようであまり好きではない。かつてフランスで柔道をしていたとき、道場の少年が「オガタ!」と気軽に呼び捨てるので「日本では通常、人の名前に『サマ』と付けるのだ。」としつけて、それ以来「オガタサマ!」と呼び捨てさせるようにしていたことがあるが、ここではそういうのも乗り気がしない。その関係で一つ気に入っているのは、かつてイギリスで知り合ったギリシャ人の女の子が小生の名前を「リンタリオ」と呼んでいたことである。たしかに、そう呼ばれてみると「うーん、俺って顔もバタ臭いし、ギリシャ人になれるかも。」と思ったりは…、勿論、しない。


 帰りはガルニまでバスで戻って、そこからマルシュルートカに乗る。遠くには夕暮れ時のアララート山が見える。たしかにその姿は感動と郷愁を誘わずにはいられない。しかも、あの山がトルコ領かと思うと尚更である。…と思って横を見ると、さすがにハコブは疲れているようである。おまけに車酔いをしたのか気分が悪そうなので早めに家に連れて帰る。


 これで訪れた世界遺産は59個。着実に数字を伸ばしている(その後、ロンドンのグリニッジ天文台に行ったので、今は60個)。まあ、遠からず目標の100個に届くだろう。

 家ではアルメニア料理を所望した我々の期待に応えて、お母さんが腕を振るってくれていた。何かというと、月桂樹の葉でひき肉を包んで、オリーブオイルとニンニクで炒めた感じのものなのだが、あれを何と呼ぶのかは分からない。コニャックを嗜みながら食べるとたしかにイケる。カリホと二人で豪快に盛り上がる。途中からは一仕事終えたお母さんも交えてコニャックで乾杯である。大体、世界各地の酒というのは、その地域の料理と合わせて飲むのが一番いいのである。小生には良く分からなかったが、お母さんは酔った後、カリホに「いかに自分のダンナはしょうもないヤツだったか。」をしみじみと話しているようであった。私生活が最もしょうもないヤツの典型とすら言えるカリホに愚痴っても無駄だと思うのだが。


● 29日、30日
(この2日はエレヴァン市内を回った。それなりに面白かったのだが、ここに特筆すべきこともあまりないので、書くのを止めておく。なお、30日、小生が起きたら既にカリホは帰国の途についていた。)


● 31日
 早朝2:00、ちょっと胃腸の調子が悪い。何となくお腹が張った感じがする。


 ハコブとタロンともお別れである。夜も遅いので起こしてはいけないと思ったがハコブは寝ぼけ眼で起きてきた。「もう会うことはないかもしれないけど、しっかり勉強して立派になるんだぞ。」と心で呟く(というか、それを言葉で伝えることができないだけなのだが。)。お母さんに「ナレク、ハコブ、タロンの勉強用に使ってくれ。」と言って、30ドルを部屋代と別に渡しておいた。通常の途上国なら、お母さんがそのままガメてしまう可能性が高いのだが、この家庭ならまあ大丈夫だろう。


 空港には一人で行けると言ったのだが、気を使ってナレクが付いてきてくれた。エレヴァン市内から20キロ程度、ツヴァルトノット国際空港は想像以上に立派な空港だった。最近、新築になったらしく設備もしっかりしているし、働いている人達も効率的に動いている。嫌がらせもない。グルジア、アルメニア両国とも空港だけなら先進国並みのレベルにあると言ってよかろう。22ドルの空港税を払った後、ナレクには「ここまででいいから。大学での勉強頑張れよ。」と言って帰すことにした。シモニアン家にはホントに世話になった。


 しかし、ナレクを送り帰したくらいから胃腸の調子が少しずつ悪くなる。グルグルと音がし始めた。思い当たるのは昨日「これで最後だから」と片っ端から種類を試してみたカスピ海ヨーグルト(と現地では呼んでいないが)だろう。食べながら「うん?これ、ちょっと臭いかも」と思ったのだが、「そういうものなのだ」と割り切って多くの種類を試してみたのがよくなかったのだと思う。今、思い直すに頭が悪い。去年正月もネパールで食べたカレーで大当たりして、機中ではひたすらひどい目にあったが、何となく「デジャ・ヴュ(DEJA-VU。正確にはデジャ・アリヴェ(DEJA-ARRIVE)くらいが正しいのだが)だよなあ、これって」と嫌な予感が頭をよぎる。ちなみに昨年は下痢で4キロ痩せた。


 朝4:40のウィーン行きのフライトに乗る。12月31日早朝にエレヴァンからウィーンに行くのはやっぱり珍しいみたいでほとんど客はいない。小生はトイレに篭もる。全く昨年と同じである。えてして頭は冷静なのだが、腰から下が既に冷静でなくなっている。水を飲んでは片っ端から下痢である。ウィーンの空港での待ち時間は5時間強。こういう時にスターアライアンスのゴールド・メンバーであるのが大きい。ラウンジに入って、山のように水分と雑誌をトイレに持ち込んでひたすら篭もる。結局、ラウンジの大半はトイレだった。ウィーンから東京に戻るフライトは12月31日ウィーン発で1月1日早朝成田着にもかかわらず、結構客がいる。機内で何をしていたかはあまり記憶にないが、ともかく調子が悪く頻繁にトイレに行った。あまりに頻繁にトイレに行っていたせいで途中からドアをロックするのを忘れてしまい、うんうん唸っている最中にスチュワーデスにドアを開けられてしまった。今、考え直すと、若きオーストリア人女性に情けない姿を見られたわけであるが、あのスチュワーデスは、トイレのドアの鍵も閉めずに、ペットボトルを数本持ち込んで唸っている日本人を見て何を感じただろうか、小生には知る由もない。ただ、何故かその時は思考回路から羞恥心がなくなっていたし、相手はすべてが大ざっぱなゲルマン女性なので、「sorry」とだけ言ってドアを閉めた。


● 1月1日
 早朝、成田着。恐らく相当げっそりしていたと思うが(結局4キロ痩せていた。)、既に調子は回復しつつあった。暖かい風呂に入る。アルメニアでのホームステイでは一回もシャワーを浴びなかったので相当汚いのではないかと思っていたのだが、いや、それはそれは垢が山のように出た。小生が入っただけで風呂の中に驚くほどの垢が浮いていた。風呂に入って寝たら、すぐに元気になった。小生はまだまだ若い。