● 6日目(4日):レー→マナーリ
 さて、今日はラダック地方を離れて、ヒマーチャル・プラデシュ州のマナーリまで480キロの行程。一応、15~16時間はかかると言われた。マナーリはインド北部の避暑地で結構発展しているらしいので、ちょっと期待している。

 とはいえ、出発時間は夜の2時。昨日の夜はまだ、パンゴン・ツォ付近にいたんだけどなあと、我ながら無理な日程設定を怨む。0:30に起床してから、ターミナルに向かう。真っ暗のターミナルの中で自分のジープを探す。これが結構大変なのである。ラダックに来る方は懐中電灯が不可欠である(ゴンパ巡りで壁画を見るときにも使える。)。ジープはまたもやタタの車で、スペーシアという車種だった。車には運転手を除いて9人の客。前席に2名(除運転手)、後部座席に3名(小生はここに入る)、荷物座席に4名である。非インド系は小生と英国人のベンの2名だけである。ベンはまだ22歳のケンブリッジ大学生。カシミールのスリナガールで夏休みを兼ねて英語を教えて、その帰途らしい。彼は小生を最後まで学生のパックパッカーだと思っていたようである。

 ちなみに普通にバスに乗って、レーからマナーリまで行けば、途中のセルチュという村(というか夏だけ設営されるテント村)で一泊していくことが多いようである。ただ、今回思ったのだが、バスよりもジープのほうが良かったように思う。小回りが効くし、土砂崩れ等にも対応能力が高いというのがその理由である。ただ、バスだと一泊していくので、身体的にはゆとりを持っていけるという利点はあるかもしれない。

 乗客の中で注目は小生の隣に座っていたアジア系顔の女性。何が注目かといったら、顔の感じが日本人女性っぽいのである。あえていえば、ありし日の畑中葉子とでも言える顔である(したがって、比較的美人のカテゴリーに入る。)。その女性が畑中葉子に似ているかどうかなど周囲の人には全く無意味なのであるが、小生は思わず、畑中葉子の(たしか、一部テレビ局で放送禁止の)名曲「後ろから前から」を口ずさむ(これまた古い)。さらに小生の発想はとんでもないところに飛んでいいきそうになるのだが、インドの山奥でそういう頭の悪い想像は止めることにした(注:畑中葉子を知らない方は少し世代が上のおじさんに聞いてみてください。そこで「カナダからの手紙」を連想するか、「後ろから前から」を連想するかによって、その方の青春時代が分かるかもしれません。)。

 車は闇夜を駆ける。心の中では密かに「実はこれって危ないんじゃないの?道を踏み外したら、間違いなくアウトだな。」と思っていたのだが、そんなに危ない道はなかった。夜だからといって、そんなに危険な手段を選んだわけではなさそうである。夜が明けてくると、壮大な山並が見えてくる。逐一形容することはしないが、このルートでは景色の移り変わりが非常に豊かで常に目を見張らされた。480キロと決して短くはないルートだが、この景色は一見の価値があると思う。あと、既に高地に慣れつつあったので、高い峠を越えるときもそれ程辛くはなかった。これが逆のルートでマナーリ(2200メートル)からレーに行くとなると、こうはいかなかったかもしれない。途中のタグラン・ラという峠は5328メートルである。ロンリー・プラネットにも書いてあったが、仮にレー-マナーリ間往復のうちいずれかを陸路で行く場合(それを勧めるが)、高地順応という観点からレーからマナーリに帰ってくるルートを陸路にすることが望ましい。


 小生はパンゴン・ツォ行きでの高地通過で懲りたので、出発前にレーでダイアモックス(正確にはAcetazolamide)という高山病用の薬を買う。10錠35ルピー。副作用があるので、本当は医者の処方箋がないと買えないらしいが、インドではそのあたりはいい加減のようである。この薬、高山病に効くらしいが副作用がある上に、高山病を根本的に解決する薬ではなく、むしろ薬を飲むことによって高山病の症状が進んでいることに気付かなくなるおそれがあるらしいので、ロンリー・プラネットでも勧めてはいなかった。小生はものは試しと服用してみたが、非常に利尿効果が強く、ジープを何度もトイレ・タイムで止めたことだけが記憶に残っているが、高山病に効いたのかどうかはよく分からなかった。リスクを覚悟で服用するのなら、それはそれでいいんじゃないの、ということだろう。

 そうこうする内に小生の後ろの荷物席に座っているインド人が外に向かって、ひたすら唾を吐いている。嫌な予感がする。こいつは車酔いをしていると直感した。次第に後ろから小さな声で「オェッ」とかいう呻きも聞こえてきた。危険である。いきなりこみ上げてきて、その勢いで小生の背中にでも豪快に吐かれてしまった日には悲劇である。かつて社会見学で、バスで小生の席の前に座っていたK君が隣のS君の膝元(何故かK君自身の膝元ではなかった)に豪快に吐いて、それ以降のK君とS君の人間関係が壊れ、しかも、K君には在学中を通じて「ゲロ」という何のひねりもないあだ名が付いたことを思い出す。しかし、この場面では仮に背中に吐かれた後、そいつに「ゲロ」とあだ名を付けても仕方がないので、休憩で止まっている間、小生は親切にそいつの背中をさすってやる。どうもさすったのが良かったのか、休憩中に一回、豪快に吐いていた。その後も、よく効果は分からなかったが「日本の酔い止めだ。苦いがよく効く。」と嘘をついて、パブロン・ゴールドも与えてみる。あれやこれやで騙しながら、とりあえず彼は最後まで小生に迷惑をかけることはなかった。

 さらにジープは山間を抜けていく。5回くらいの休憩を経て、マナーリから40キロくらいのところにある最後の峠、ロータン・ラに着く。ロータン・ラからは遠くマナーリの街が望める。パラグライダーか何かで行けばヒョイッと行けてしまいそうな気分にすらなる。あと、ロータン・ラまでは枯れた大地が広がっていたのだが、ロータン・ラを越えると途端に木々が豊かになって、周囲の風景が瑞々しくなってきた。冬に中国チベットに行った際も、チベット高原からヒマラヤ南部のネパール側に降りてくる時、同じような経験をした。もう、ここまで来るとヒマラヤやラダックともお別れである。この感覚は経験したことがない人には分かりにくいが、やっぱり木々の溢れる風景というのは人の心を和ませる。ベンと二人で「心が和む風景に一変したな。」ということで意見が一致した。

 ....と心和んでいたら、どうも車が渋滞している。こんなところで渋滞するとはおかしいなあと思っていたら、突然、車が止まって、運ちゃんが「この先、道路が土砂崩れで完全に遮断されていて、これ以上は車では行けない。歩いて数キロ降りれば村があるから、そこまでは自力で行ってくれ。」と言う。もう、超ショックである。結構、疲れがたまっている中、重い荷物を担いでトレッキングかよと思うと泣けてくる。しかし、泣き言を言っても仕方ないのでリュックを担いでテクテク歩き始める。たしかに土砂崩れの起きているところは完全に道路が数箇所に亘って遮断されていた。木もアスファルトも何もかもが根こそぎ持っていかれており、それはもう壊滅状態と言っていいくらいである。小生の見立てでは修復まで数週間はかかると思われた。レーからの路中、何度か軽い土砂崩れを起こしている地点があったが、ともすればああいう道もこういう風に完全に遮断されるおそれがあったわけである。もし、人里離れた地点で土砂崩れが起きていたら、そこで少なくとも数日は足止めだから、マナーリまであと少しのところでの土砂崩れで済んだだけでも幸運としなくてはいけないかもしれないとポジティブに考えることにした。


 ベンと二人でテクテク歩いていく。小生の荷物も少なくはないが、彼の荷物は小生の1.5倍はある。相当、重いはずである。途中からは事実上の獣道になる。普通に人間様が通るような道ではなく、とてつもなく険しい道である。正直なところ、見ただけで泣けてきた。勿論、泥道でズルズル滑るので危ない。我々は若いからまだ何とかなるが、西欧人の御老人グループなどはもっと悲惨である。こういう時に何処からともなく湧いてくるインド人ポーター(荷物1つ200~300ルピー程度と思われる。)に荷物を託したとしても、長旅の御老人には辛いであろう。早速、我慢のできないイタリア人おばさんが(恐らく)「なんで、こんな目に遭わなきゃいけないの?!」とばかりに小生の前で吠えている。小生は「うーん、そんな事言っても詮無いだろうに。どうせ、色々な観光地でルール破りしたんだろうから(と勝手に決め込んで)その報いさ。」と心の中で思いながら横を通り過ぎていく。小生は心が狭いので、我慢のできないイタリア人には同情しないのである。しかし、小生とベンも何度もズッコケて汗まみれに泥まみれである。一回「吉本新喜劇」並みに大コケして坂道をずり落ちたときはちょっと危なかった。擬態語で表現すると正に「ズルッ」という音が適当なコケ方だった。二人で精一杯コケ合ったところで、一休みしてベンと二人でチョコレートを分け合う。ヘトヘトの身体に嬉しい。そんな中、インド人ポーター達は重い荷物と共に裸足でスイスイと昇り降りしていく。もう、すっかり彼らの能力には脱帽である。我々は降りるだけで1時間近くかかったが、インド人ポーターは昇り降りで45分だと言っていた。

 そんなこんなで、ボロボロの二名はようやく下の村までたどり着く。完全に膝が笑っている。しかし、二人で勝利のガッツポーズ。疲労困憊とは正にこのことであった。村でジープを再度つかまえて、マナーリの街に行く。50ルピー(少し高いが、足元を見られる状況なので仕方がない。)。インド人の新婚旅行先として人気があるらしいこの街はたしかに発展している。自然豊かな避暑地といったところであろうか。早速、小生はマナーリで次の目的地デリーまでのバス・チケットを留保する(450ルピー)。先にも書いたが、インドのバス制度は予約制で席が確定している上に固定価格制なのであまり面倒なことはない。その後はマナーリの街の近くのヴァシシュトという村に温泉があるということなので、ベンと二人で「温泉にでもつかるか。」と意見が一致して、マナーリから4キロ程度のところにあるヴァシシュトの村に泊まることにした。リクシャー(三輪車)で40ルピー。

 ヴァシシュトではベンと二人で早速、温泉に行く。温泉というか屋外沐浴所に近いような気もしたが、ともかく温かい温泉が出ていて、それが一般に開放されているのである。ガイドには料金制ということになっているが、誰もお金を徴収している人間はいなかった。さて、温泉に入ろうとしたところで、小生は足が滑ってまたもや大コケ。それにしても今日はよくコケる日である。どういうふうにコケたのかを詳しく説明するのは難しいのだが、簡単に言えば1メートルくらい落下して石畳で膝を激しく打った。今でもまだ、打った膝が少し腫れている。

 ここで小生はインド人との文化の違いを認識した。小生は日本の温泉の感覚で素っ裸で温泉に入っていたのだが(ベンはトランクスを履いていた)、そんな客は他にはいない。素っ裸は小生一人なのである。どうも、それは非常に奇妙な光景らしく、皆が小生をジロジロ見る。素っ裸であることをもって周囲の人の注目を浴びるというのはやっぱり変な気分である。最後にはサイババみたいな修行僧っぽい親父が寄ってきて、「若いの、温泉に入るときは何か履いてきなさい。」とありがたい助言。しかし、その助言の中でよく分からなかったのが「何も履いてないと汚いからな。」という部分。履いてても、履いてなくても汚いヤツは汚いし、実際、インド人が履いているトランクスのようなものはどう見ても汚れているのである。あんなのを履くくらいなら、何も履かない方が温泉全体の衛生上の観点からもいいと思うのだが。

 何はともあれ、疲れた身体に温泉は非常に良かった。ベンと二人でビール(高地にいる間はさすがに控えていた)を飲んで、ベンがくれた葉巻を吹かして、豪快にぐっすりと寝る。


● 7日目(5日):マナーリ→デリー
 朝、爽快である。ぶっ通しで12時間くらい寝つづけたので、すべての疲れが吹き飛んだ感じがする。ヴァシシュトに泊まったのは大正解であった。

 再度、温泉に行く。今回はきちんと下着を履いて入ろうと思ったのだが、綺麗な下着を持っていくのは何となくもったいない。ということで、昨日、汗まみれ・泥まみれになった時に履いていた下着で入って(勿論履く前に少し洗って)、その下着をそのまま捨てることにした。こういう輩がいるから、必ずしも何か履いて温泉に入るほうが清潔だという結論にはならないのである。昨晩は夜だったので気付かなかったが、この温泉は湯の花がたくさん浮いている。少なくとも、昨今、日本で流行しているような水道水に温泉の元を入れた温泉ではないようである。ただ、浮いているのは湯の花だけではなく、得体の知れない虫とかも一緒にたくさん浮いていた。


 その後はマナーリの街まで降りていって、暫くブラブラする。ここで、この先ダラムサラ(ダライラマの亡命政府があるところ)に行くベンとはお別れである。小生は昼下がりまでマナーリの街で時間を潰して、15:00発のデリー行きバスに乗る。一応、デラックス・バスということになっているが、まあ、大した事はない。ローカル・バスと比較すると綺麗ということを意味するにすぎない。マナーリからのバスは事実上の深夜バスで(昼間は暑いので自ずと深夜バスになる。)、食事と休憩で3度止まった時以外はずっと走りつづけていた。外は雨が降っていたりしていて、乾燥したラダックとは違う地域に来ていることを再度、認識した。


● 8日目(6日):デリー
 ずっと、寝つづけていたら気がついたらデリーであった。朝6:00頃、デリーのよく訳のわからない場所で降ろされる。デリーではコナキタさんの家に泊めてもらうことになっていたので、そこまではリクシャー(三輪バイクみたいなもの)で行く。朝のデリーの喧騒が新鮮である。


 コナキタさん宅で暫く寝かせてもらう。こうやって、ゴロゴロするのはこの旅行になって始めてである。ゴロゴロしながらテレビでインド映画など見たりする。インド映画というと一般的に、突拍子もないストーリーの中でひたすらスターとヒロインが踊りながら愛を語り合うというイメージであるが、最近のボリウッドはそうでもないようでレベルが確実に上がっている。ただ、全体として予定調和的なストーリー展開が多い。「このあたりで踊りが入るだろうな。」と思うと、やっぱり踊り始めるのである。「ドリフの大爆笑」で「あー、盥が落ちてくるぞ、落ちてくるぞ。」と思っていると、いかりや長介の頭に「ガンッ」と盥が落ちてきて、視聴者はホッとするといった気分と同様の感覚で見ている分には非常に楽しいのである。あの頭のてっぺんから抜けるような声で歌っているのも、個人的には味があっていいと思う。中国の伝統歌謡でも似たような発声方法があるから、ああいう甲高い声はきっと女性のセックス・アピールなのではないかと思う。それにしても、インド映画でちょっと気になるのは、ヒロインは皆、お腹の肉が衣装からデブッと出ていることである。折角、美人でメークもしっかりしているのに、なんかお腹のところが緩いのである。きっと、十年後には恰幅のいい「どすこい系」のおばさんになるのだろう。たしかに、女性にある程度の「ふかふか感」が求める男性も多かろう。インド人的にはああいうところにセックス・アピールを感じるのだろうか。


 ついでに、これまで溜め込んだ洗濯物をコナキタさん宅のメードに洗ってもらう。一番汚い下着はヴァシシュトで温泉用に使った後、捨ててきたが、それでも汗まみれに砂まみれになることが多かったので、これは非常にありがたかった。


 デリーでは昼、夜と高級インド料理にありつくことが出来た。これまではずっとどんなに奮発しても100ルピー程度で豆カレー(又はそれに類するもの)+ナン+マサラ・ティーだった。唯一カレーでなかったのは、レーで一回、チベット料理を食べたときだけである。中国チベットでもそうだったが、やっぱり高地では取れる作物、飼っている家畜に制限があるので、食事のバラエティも制限されてしまう。デリーまで来れば、値も張る代わりに味もそれなりのメシにありつくことが出来る。これまであまりありつけなかったチキン・ティッカもある。嬉しい。まあ、値が張るといっても所詮は100ルピーが500~1000ルピーになる程度である。繰り返しになるが、東京のそれなりの店で飲むと思えば安いものである。インドに来たときに交換したルピーはまだ山のように余っている。ただ、高級インド料理はどうもニンニクを大量に使っているようで、それから暫くは小生はニンニク臭かった(だろうと思う。)。


 なお、幸運なことにここまで全くと言っていいほどお腹を壊していない。基本的に変なモノに手を出していないのが勝因である。特に卵系には絶対に手を出さないようにしていた。これまでの経験から言って、大体、卵がよくない。タジキスタンでも半熟卵で大当たりしたし、前回のチベット旅行でも恐らくは卵が原因でとてつもない下痢をして、痛恨の成田空港検疫所にお世話になった。しかも、今回は灼熱のインドである。どうせ卵は高温多湿の場所に置かれているのだろうから、まず間違いなく当たると思って、今回は慎重には慎重を重ねている。


● 9日目(7日):アーグラー等
 残りの二日は週末に当たるので、コナキタさんにアーグラー及びデリーを案内してもらうことにした。デリーにはクトゥブ・ミナール(巨大な塔)及びフマーユーン廟(ムガール帝国2代皇帝の墓)、アーグラーにはタージ・マハル(ムガール帝国皇帝シャージャハーンが后ムムターズのために作った墓)、アーグラー・フォート(砦)及びファーテフプール・シークリー(城とモスク)という計5つのユネスコ世界遺産がある。何を隠そう、小生は「死ぬまでにユネスコ世界遺産を100個回る。」というのを人生の目標にしている。これまで大体50くらい回っているので、今回5つを積みますことになる。ただ、小生の50の中にはフランスのパリ・セーヌ川沿いとかリヨン旧市街みたいな、はっきり言ってカスのような世界遺産が含まれている。その一方で、超マイナーなバンジャガラの崖(マリ)、ンゴロンゴロ国立公園(タンザニア)、イチャン・カラ(ウズベキスタン)、メルヴ遺跡(トルクメニスタン)といったものが含まれているのも特徴的である。


 ところで、ムガール帝国のムガールとは「モンゴル」という言葉の変形らしいのだが、昔、大学一年の頃、塾の先生のバイトをやっていた際、生徒から「先生、ムガール帝国の創始者は誰ですか?」と聞かれ(正解はバーブル)、小生はよく覚えていなかったのだが、ここで知らないと言うのは沽券にかかわるので、「ティムール帝国はティムールが創始したんだから、ムガール帝国もムガールという人に違いない。」と勝手に決め込んで、「うん、ムガール帝国の初代皇帝はムガールだな。」と答えたことがある。その後、訂正した記憶がないから、あの少年はきっと、東大受験に合格したばかりの先生が言うのだからと、少なくとも一度は試験の回答に「ムガール帝国は初代皇帝ムガールによって創始され....」と書いて、マイナス点をもらったに違いない。10年以上前の話だが、改めてちょっと申し訳ない気分になる。


 まずはアーグラーに行く。デリーから200㌔強のところにある中規模都市である。道がしっかりしているので、そんなに時間はかからない。デリーから列車というオプションも結構いいらしいと聞いた。


 昔、インド人が「世界には二種類の人がいる。タージ・マハルを見たことがある人とない人だ。」と豪語していた。んなことを言われても、へそ曲がり5段の小生は「そもそも、君達ヒンドゥー教徒でしょ。あれは君達とは無関係の建築物だよ。」とか、「あんなもの作るから、ムガール帝国は国が傾いたんでしょ。」とか思うのだが、まあ、それくらい立派なイスラム建築物ということである。上記のとおり、タージ・マハルは皇帝シャー・ジャハーンが后ムムターズのために作ったお墓みたいなものである。えてして、歴史を見れば「お墓」というのは国を傾ける。秦の始皇帝しかり、漢の武帝しかり、ピラミッドしかりである。なんてことを考えながら、タージ・マハルに行く。コナキタさんは現地人価格なので20ルピー、小生はなんと750ルピーである。何でも入場料250ルピー+遺跡保存料500ルピー(但し、遺跡保存料についてはアーグラーの遺跡はこれで全部OK)とのことである。観光地入場料の高額化は世界的な趨勢である。まあ、仕方ないと言うしかない。


 タージ・マハルがどんなものかは大体、写真等で見たことがあるだろうからここでは説明しない。それにしても暑い。太陽が燦燦と照りつける。小生はとても汗かきなので、身体中から汗が噴出してくる。どう考えてもこの時期はベスト・シーズンではない。しかし、コナキタさん曰く「これでも少し気温が下がったほう。一時期はもっと暑かった。」とのこと。インド恐るべしである。小生は昔、マリの奥地の砂漠地帯に行ったことがあるが、あの時は超乾燥していたので暑いといっても、まあしのぎ易くはあった。こっちはそうはいかない。モワッとしたジメジメ感がある。ひたすら汗が流れ落ちる。


 ベスト・シーズンではないのかもしれないが、やっぱり観光客は多い。やっぱり西欧人が多いよなあと思いながら見ていると、やはりここでもイタリア人で初老の、しかもピンク色のワンピース(ミニスカート)を着た御婦人が、なんか変な格好をして写真撮影をしている。まず、一応イスラム建築で、しかもお墓という神聖な場所にそんな格好をして来るなと思う。さらに悪いのは写真撮影をするポーズがイケてないのである。もうこの場で描写することが到底不可能なくらいイケてないのである。小生及びコナキタさんの目には単なる珍奇な御婦人にしか見えなかったのだが、当人は大真面目である。何度も繰り返しになるが、イタリア人の旅行マナーは本当に最低である。


 あと、こういう観光地に付き物なのがインチキ臭いガイド。小生は「これも遺跡を彩る粋なエキストラ」と思うようにしている。相手にしなければ全然問題ないのだが、最近は敵もさるもの、さりげなく寄ってきて「私はガイドではなく、ここで働いている者です。」といって色々説明をしてくれるおじちゃんがいる。もしかしたら本当にそうなのかもしれないが、どう見ても胡散臭いのである。どうせあとで「お布施」とか言ってくるのは明らかである。しかも、説明してくれても、ムガール帝国の歴史とか、タージ・マハル建立の経緯とかを説明してくれるだけで、そんなのは小生にはちんぷんかんぷんなので無視していた。大体、ガイドというのは色々説明してくれるが、その説明が見物に資することは稀である。


 その後、アーグラー・フォートとファーテフプール・シークリー(アーグラー市内から40キロくらい)を回る。それぞれ250ルピー(だったと思う。)。これも小生が色々説明したところで、上手く伝えられないので止めておく。いずれもユネスコの世界遺産になるくらいなので立派である。ともかく暑かった。したがって、写した写真はすべて汗まみれである。


● 10日目(8日):デリー市内
 朝、自分の臭いで起きる。と言っても、風呂に入ってないといった理由での体臭ではない。ニンニクが大量に入ったものを食べると、自分の臭いで起きることがある、ただ、それだけである。こればかりは仕方がない。コナキタさんも小生と同じ物を食べているので、お互いに気付くことはないが、第三者的には「ちょっと近寄りたくない人達」だったかもしれない。


 今日はデリー市内にあるフマーユーン廟とクトゥブ・ミナールを巡る。フマーユーン廟はタージ・マハルの縮小版、クトゥブ・ミナールは巨大な塔と言えば分かり易い。いずれもイスラム建築である。昨日の3遺跡もそうだが、大体、インドにある立派な遺跡にはイスラムものが多い。まあ、よく思い直してみれば、紀元1000年頃にゴール朝なるイスラム王朝が北インドに入ってきて以来だから、相当の歴史がある。今でも国民の1割程度がムスリムだというから1億人である。これよりもムスリムが多い国といえば、インドネシア、バングラデシュ、パキスタンくらいである。インドというとヒンドゥーを想起するが、意外にそうでもないのである(そもそも、ヒンドゥー「教」とは何ぞやと聞かれてスパッと答えられる人はいないであろうが。)。


 さて、このあたりで長い旅も終わりである。あれやこれやとあったが、有意義な旅だった。付加的な要素ではあるが世界遺産に5つ行って、これで54箇所。一般的な日本人と比較すると多いほうだと思う。今回の旅行で非常にお世話になったコナキタさんに最後、空港まで送ってもらう際、ポケットの中を見るとまだ5000ルピーほど余っている。後半はコナキタさん宅に泊めてもらって、案内してもらったため、容易に他の方の旅行と比較は出来ないが、まあ、1週間強で4万円弱。もうちょっと豪勢にやればよかったといつもながら思う。


● 11日目(9日):デリー→バンコク→東京
 帰りもタイ航空のビジネス。真夜中ちょうどくらいの発の便だった。前回、チベットに行った際の帰りの便はひどい下痢でずっとトイレにこもりっきりだったが、今回はそういうこともない。

 タイ航空はタイだけではなく、それ以外のアジア諸国へ行くためのハブを目指しているようで、特に日本人観光客に相当乗り継ぎの良い便を提供している。サービスもいいし、食事もいい。スチュワーデスの質が著しく悪かったり、サービスの質が低下している欧米系の航空会社など比にならない。何といっても、乗る際、スチュワーデスのお姉さんが手を合わせて「サワディカー(と小生には聞こえている)」と挨拶してくれるのがいい。ちなみにこれまで小生はタイ航空に乗る時は、スチュワーデスのお姉さんに応えるべく同じく手を合わせて「サワディカー」と応じていたのだが、どうもこれは女性の挨拶らしい。これまでの小生の行為は、密かに彼女達の中では「女性言葉で挨拶をするオカマっぽい変な日本人」で片付けられていたかと思うとかえすがえす残念である。まあ、いずれにしても、スチュワーデスがガムをクチャクチャ噛みながら「Would you like something to drink?」と横柄に聞いてくる米系航空会社、シャルル・ド・ゴール空港での対応が著しく悪いエール・フランス、何が悪いというわけではないがすべてが大味なルフト・ハンザなんかに乗るくらいなら、断然、タイ航空やシンガポール航空である。

 成田空港に着く。今回は空港検疫所に世話になることもない。意気揚揚と税関を越えようとしたら、税関職員から「どちらに行かれてました?」の質問。「インドですけど。」と応えるや否や、バッグを全部開けられてしまった。税関職員は「いやー、色々と『記念』に持って帰ってくる人が多くてですね。」と言っていた。たしかに無精ひげが伸びていて立派な人間には見えなかっただろうが、それにしても念入りに開けられてしまった。エッチな本なんかをお土産にしていたらちょっと恥ずかしかったかもしれないが、そういう趣味はないので単に汚い下着なんかをあさっただけで終わった。インドに行っていたことが悪かったのか、小生の顔が悪かったのかは検証すべくもないが、それにしても成田空港では初めての経験だった。

● 今回の旅行の精算
(1) インドで使った現金  4万円強
(2) デリー~レーの航空運賃 120ドル弱
(3) 自宅~成田  3500円程度(京成線)
(4) 諸雑費  7000円程度


 こうやって考えると、往復にマイレージを使ったことや、デリーでコナキタさんにお世話になったこともあり全然お金を使わない旅行だった。別にケチっているわけではないのだが、〆て6万円強。