【駆逐艦 冬月 】戦艦大和の最期を見届けた護衛艦の一つ(^O^) | rinputamago3191のブログ

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79年前の今日、4月7日、14時23分「坊ノ岬沖海戦」にて戦艦大和が沈没しました。

 

この大和の最後の戦いには、軽巡洋艦矢矧、駆逐艦冬月、涼月、磯風、浜風、雪風、朝霜、初霜、霞の9隻の護衛艦が随伴していました。

 

大和沈没後、日本の佐世保に帰還できたのは冬月、涼月、雪風、初霜の4隻だけでした。

 

以前のブログで「雪風」については取り上げたことがあります。

今回は「冬月」について少しご紹介したいと思います。

 

駆逐艦冬月は、日本海軍が舞鶴海軍工廠で建造した秋月型駆逐艦8番艦で1944年5月に竣工しました。

 

「駆逐艦」は英語では「デストロイヤー」と言います。文字通り小型かつ高速の艦船で、魚雷や砲撃ですばやく大型の戦艦などを攻撃、葬り去ることからこう呼ばれているようです。

 

冬月は主に輸送船や空母などを護衛する任務についていたようで、小笠原諸島や硫黄島方面への緊急輸送作戦、東京湾方面の警戒任務に従事しています。

 

1945年4月7日の坊ノ岬沖海戦では、大和沈没後も奮戦し、大和やその他沈没した護衛艦の乗組員を救助し、佐世保に帰還しました。

 

坊ノ岬沖海戦後、冬月は小規模な対空戦に参加して終戦を迎えます。そもそも日本海軍そのものが、もはや大規模な作戦を行えなかったわけですが・・・。

 

 

戦後は復員船としては利用されず、工作艦として運用されたようです。

 

そして、終戦から3年後の1948年、解体された冬月はなんと「防波堤」として北九州市の若松港に眠ることになりました。

 

冬月ほか2隻の駆逐艦が防波堤として埋設されました。沈設当初は船で渡る必要があったものの、観光名所となり、船首楼の内部に入れたようです。

 

残念ながら現在では、その船体はコンクリートの下に埋まってしまい、確認することはできません。

 

大和を護衛した冬月が、今も姿を変えて日本を守っているような気がして、なんだか嬉しい気持ちになります。(^_^)

 

今回は簡単ではありますが、大和と最後の戦いに参加した駆逐艦冬月をご紹介しました。

 

ちなみに「冬月」の艦名は海上自衛隊の護衛艦「ふゆづき」に継承されています。

 

私は昨日、本日と二日続けて自宅近所の桜の見物に行ってきました。

 

桜や菜の花、目の前に広がる自然の生命力をいっぱい感じてきました。坊ノ岬沖海戦へ向かう大和、冬月らの乗組員も、出撃の際に桜を見たという話を読んだことがあります。

 

私は彼らとは世代も考え方も違いますが、桜を愛する日本人の心は同じだと思っています。

 

坊ノ岬沖海戦で散った幾千の英霊に、感謝の気持ちを捧げたいと思います。(^O^)