♪ 花ならばさぐりても見ん今日の月  | 京都盲唖院・盲学校・視覚障害・点字の歴史

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  この句は、塙保己一のものと伝えられている。ネットにもそう記した例が少なくない。その妻の作として「十五夜は座頭の妻の泣く夜かな」が並べられる。

 だが、旧大阪市立盲学校の教員で、温故学会に属して保己一論集まで刊行なさった中江義照さんは、疑問を呈している。(『温故叢誌』第三十三号「塙保己一研究雑記」)

 まず、二つの句は石川二三造の『本朝瞽人伝』に載っているが、その典拠が確認できない。次に、保己一は、「さぐりても見ん」の哀れさとは対照的な澄み切った月を歌に詠んでいて、違和感がある。加えて、既に「検校」へと昇進していた保己一を妻が「座頭」と呼ぶのは不見識ではないか と。

 この詮索はさておき、月へ届く長い長い手を持たなくても、3Dプリンタなどの力で、その一部分ではあれ、「さぐりうる」対象へと変容しつつある「今日の月」だと言えようか。