また福翁自伝を読みました。
東洋文明に対する福沢諭吉の評価。
そこには儒教の限界、西洋の技術革新が東洋を完全に上回った、
幕末の世相が反映されていました。
西洋には個人の独立があったからこそ、技術革新が起こったのだ、
個人の独立がなければ国の独立がないのだという発想ですね。
封建社会で、国の命令が絶対の世の中、
家庭内で父親の命令が絶対の世の中では、新しい発送・アイディアが出てこないのだ、
そこが儒教の限界である、というころですね。
(福沢諭吉の諭の字は漢文由来ですし、福沢諭吉自体は漢学者について高い評価もしています。)
え?
なんで?
個人が独立自尊の発想を持っていないと、国も独立できないと、
完全に言い切れるの?
個人が儒教思想を持っていると、技術革新が絶対に遅れるの?
その辺りは最近の中国の経済発展を見ていると、どうなのかという気もしますが、
福澤先生の当時はアジアはほぼ植民地化されていましたから、
そこに何らかの法則性・理論を福澤先生が求められることは当然かとも思いました。
・・・
最も印象に残るのは、福澤先生が「投資・金利に興味がない」と仰ったエピソードです。
先見性があり新しいことにどん欲な方が敢えてそう仰られたのは、
中津藩の藩士の子として実直な家庭の価値観の基に育てられたからと思われます。
これからは投資の時代だ、西欧では当然だと、啓蒙されてもおかしくないところを、
自らの性に合わないと仰るのは、幼少の頃より質素な生活をされ、
贅沢やはいずれ身を亡ぼすという価値観が福澤先生の根本なのでしょう。