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密教僧のブログ

幸せになる人間と不幸になる人間は何が違うのか。目に見えない世界の法則を密教僧が解き明かします。

人間にとって歩くという行為は当たり前のものです。
普通の人なら自分の歩き方に特別な注意を払うことは少ないでしょう。

 

歩き方は重要なのです。
極端にいうならば、歩き方一つでその人が成功するかどうかがわかってしまうほどであります。

 

人の歩き方はいくつかのパターンに分けることができます。それを書いておきます。

 


・ぴょんぴょんと体が跳ねるような動きの方。こういった歩き方をする人は、なにをしても失敗が多いでしょう。決断力に欠けているため、いざというときに気が迷い運を逃します。決断力がなく何にでも迷う人で運のよい人はいないといえます。また、持っている才能があっても発揮できません。生涯お金に恵まれた生活は送れないでしょう。たとえ親から財産を引き継いでも、自分の代で失ってしまう歩き方です。

 


・体を左右に曲げ、腰に力が入ってない歩き方です。ヘビが地面を這うような感じです。こんな歩き方をする人は、油断のできない人です。善人そうに見えても、人を陥れたりするずるいところがあります。当然、運から見放される歩き方です。成功者になることはないと思います。一時的に成功しても長くは続かないでしょう。

 

・さっさと素早く動いたかと思うと、ふと歩みをゆるめ、または立ち止まり、あたりを警戒するように見回す人。こういった歩き方をする人は、猜疑心が強くひねくれている人が多いのが特徴です。

 


・人の流れに合わせず、自分だけ素早く歩く人は、素早く動きながらも前後左右に気を配り、自分の損になることはないか、誰か自分を陥れようとしていないかに注意しています。しかし、このような人こそ、他人を陥れたり、盗みなどの悪行に手を染めやすいといえます。


・アヒルが歩くように、大きなお尻を振りながら、左右にぺたぺたと足をつきながら歩く人。このような不安定な歩き方をする人は、孤独でいやしい人物が多いといえます。これらが、良くない歩き方の特徴であります。


理想ばかりを追いかけて、現実に目を向けない人のことを、地に足がついていない人と表現しますが、これは言い得て妙で、歩き方でも同じことが言えます。

 

地面にしっかり足がつかないような歩き方をする人は、考えや行動もしっかりしていないといえるでしょう。

 

 

では、運気のよい人、成功する人の歩き方ですが、特徴として、かかとに力が入っています。

 


かかとに力が入ると、体のバランスが良くなるため、腰が決まり、前かがみになることも、後ろに反りかえることもありません。

 

こうした歩き方を心がけていると、しだいに体のなかに気が充実してくるので、運を招き寄せるようになるわけであります。

 

 

 

 

 

 

運が悪い人は、決まって遅いことが特徴であります。なぜ遅いのかというと、遅いことがいいことだと勘違いしているからです。


ゆっくりすれば、熟慮しているように思え慎重になっているかのような感じがします。


慎重派の人は、好き好んでゆっくりになり、うまくいかないのです。

うまくいかない現実を見て、こう思います。

自分の熟慮が足りなかったんだ。もっと慎重にゆっくり考えればよかった。


ただでさえ遅いのに、まだ早いと思っています。早いから失敗したのだと勘違いして、もっと熟慮と慎重を繰り返し、さらに遅さが増します。遅くなれば、さらに運は逃げてしまいます。もっと失敗しやすい体質へと変わるのです。


遅い人は、たとえば、仕事を任されたとき「絶対に失敗しないように」と慎重になります。

しかし、お願いした側からすれば、終わるまでに時間がかかっていると「まだできないのか」といらいらします。仕事が遅いと、業務に支障が出るため、だんだん仕事をお願いされることがなくなります。


仕事がふられなくなった理由を「仕事のできが悪かったんだ」と思い、次からもっと丁寧で完璧に仕事をしようとしています。

下手でもいいから、まずさっと仕事を終わらせることが必要です。


恋愛においても、好きな人がいても、なかなか告白しません。
「もっと相手のことを知ってから」

慎重派の人は、決断までに時間がかかり、もたもたしているうちに、相手はほかの人と付き合い始めます。自分がチャンスを逃した理由を「自分に魅力がないから」と思っています。そうではなくて、ただ決断も行動も遅かったからです。


運の悪い人は、その他、様々な場面で迷い、遅いのであります。

メールの返信や買い物でもそうです。


うまくいかない人は「自分が遅いことが原因」ということに気づいていないのです。むしろ「自分はまだ早すぎる」とさえ、勘違いしています。早すぎる決断だから失敗したんだと思い、さらに遅くなり、さらに運もチャンスも逃げていきます。






最後に、ナポレオン・ヒル博士の言葉を書いておきます。


ヒル博士が多くの成功者たちに会ってみると、彼らは例外なく決断力の素早い人たちだったそうです。


また、一度決断を下したものを変更しなければならないときは、 慎重に時間をかけて決定を下したといいます。


一方、失敗者の多くは決断が遅く、また、変更は素早く頻繁に行っていたそうです。




当時25歳の青年であったナポレオン・ヒル博士が、世界的な大富豪、アンドリュー・カーネギー氏と仕事の打ち合わせに望んだ時のことです。


ヒル博士はその仕事を請け負う決断を29秒で決めましたが、その時、カーネギー氏はストップウォッチを持っていました。


なぜストップウォッチを持っていたのか、後々訊ねてみれば、こんな答えが返ってきました。


「もし、君がこの決断を下すのに1分以上かかったら君はもう、見込みがない人間だと思ってあきらめるつもりだったんだ。この程度の決断をするのに1分以上時間がかかる人間は、 何をやらせてもモノにはならないんだ。大きな事など、とうてい成し遂げられる訳がないからね。」


決断の時、人は誰でも人生の中で、大きな決断をしなければならない時があります。


自分の目標や目的意識の明確な人は、そうした重大な決断の時にも、自らの判断を疑うことなく、的確な決断を下すことができます。


しかし、目標がはっきりしておらず、あやふやのままであるなら、重大な決断のときに迷い、多くの人の言葉に流され振りまわされてしまいます。


自分の判断に自信が持てず、心の底にある不安が勝ってしまうのです。


決断を迷わず、素早く判断を下すには、日頃より自分の目標を、しっかり見据えておく必要があります。


決断の素早さに重きを置き、大富豪となったカーネギー氏が行っていた工夫は、以下の通りです。


1.自分が実現したいと思う願望を、明確にすること。

2.実現したいと望むものを得る代わりに、何を差し出すのか決めること。

3.願望を実現させる最終期限を決めること。

4.そのための詳細な計画を立てること。

5.それらを詳しく紙に書くこと。

6.紙に書いたこの項目を、1日に2回、起床直後と就寝直前に大きな声で読むこと。





なかなか決断ができない人は、信念のない人であり、やっと決断しても長続きはしないのであります。


決断力のある人ほど、最後までやり通す信念をもっているのです。


子供がすぐに怪我をする。

どこかにぶつけてケガをしたり、転んでケガをしたりなど。


そんなことがあまりにつづく場合、何年もお墓参りをしていない場合が多いのであります。

どんなに立派なお墓を建てても、心から先祖を祀る気持ちがなければ、そのお墓はないに等しいと言えます。


先祖は、家族に忘れられてしまうことを非常に悲しみます。そして成仏できないのです。

その気持ちを訴えるために家族に、そのような現象を起こすことがあります。ですので、すぐにお墓に行くとよいでしょう。


生前好きだったものも分かれば、供えてあげます。そして、お墓に供えたものは、家に持ち帰り家族で食べてあげて下さい。


どんなに粗末なお墓でも、時々お墓参りをしてあげると、仏様の気持ちが落ち着いて家族を守護してくれるのであります。




事故多発地といわれる場所で、交通事故が繰り返し起きるのは自縛霊が原因している事が多いのであります。


そうゆう場所は、何でこんな所で事故が起きるのだろう。と不思議に思われるような場所が多いものです。


見通しのいい田畑の途中や、何でもないカーブの地点に、離れ難い自縛霊があって、何回も事故を起こすのです。そんな所には近くに必ず水の流れがあるのです。


たとえ細い流れでも、そうゆう場所には、昔、水死人が出ているものです。見晴らしのいい事故多発地点、その近辺を見てください。必ず水の流れがあることに気づくでしょう。今は細い小川でも、昔は大きな流れだった所もあるのです。


かつて、そこで足を滑らせて無念の死をとげている人がいるかもしれません。そうゆう場所で事故が起きる時は、道路に誰か人がいるように見えて、急にハンドルをきったり、道の幅を見誤ったりするわけです。


こうした一瞬の錯覚は、そこでかつて亡くなった霊が、自分だけ死んでいることに耐えられず、いわば仲間に入れようと呼び寄せるために起きることです。

このような場合の供養では、事故の起きた道路の傍に花束が置いてあったりします。これは、その事故で亡くなった方を慰めるのにはいいでしょうが、その事故の原因の供養にはなりません。近くの水の流れのそばも供養する必要があります。


事故の起きた場所へは自縛霊がはいずってきて、自分をいろいろなものに見せるのです。あるいは、不思議な眠気をもよおさせたりして、死者の仲間をふやそうとします。


それとともに、道路からやや離れた、自分が死んだ場所に、誰か注目してほしい、忘れ去ってほしくないという願いもあるのです。ですから、事故発生の地点とともに、流れのある所の供養も忘れてはならないのであります。


守護霊のいない人の人生とは、どんなものでしょう。
離婚する家系のところからは必ず一組ではなく、何組も一軒の家から離婚した夫婦を生み出しますし、病弱な家系の人は、いつまでも病気がちな体質の人を生み出しつづけます。


経済観念のない家柄では、何代までも経済的な問題に悩まされつづけるでしょう。しかし、こうしたことは、別に霊が作為的に不幸にさせているわけではありません。

逆に、守護霊がつかず、何をしようと、どう生きようが反対してくれる者がいないために、こうした不幸を招くことになるのです、ようは醜い心をもつため、人にも霊にも相手にされないという事であります。


注意してくれる、反対してくれる人がいるうちはまだましなのです。


自分のために、お線香の一本もあげてくれる気のない者、聞く耳ももたぬ者に対して、霊が意地悪をしているのではありません。


ただ、その人間に対して何かを期待しなくなり、興味も失ったというだけの話であります。人は表面、穏やかそうにみせてはいても、必ず内面にいろいろな形の地獄を持って生きているものです。


生まれつき幸福で生を受けてから死ぬまで平穏に人生を送れるならば、これに勝る幸せはないのですが、残念ながら人の一生とは、そういったものではないのです。


喜びとはほんの束の間、一夜の夢にすぎません。後に続くのは、ほんの束の間の幸せを追い求める退屈や孤独や何ともいえぬ人生の重荷を背負っての苦しい旅なのです。


私たちに不幸という波が襲ってくるのは、防ぎようもないことですが、その波を身を呈して救ってくれるのが、守護霊の存在です。守護霊とは、決してあなたに関係ないものではなく、いうなれば、あなたの心を映しだしている鏡そのものなのです。









友の死、自分の病、結婚生活にまつわる様々な悩み、子供の心配といった具合であります。


どんなに幸福な人でも心配や迷いを抱えない人はいないという事です。


不幸のどん底からはいあがった人達の大半は、今は亡き愛する肉親や動物の霊の助けによって、幸せになる事が実に多いのです。


普段から人の道に外れた言動をしている人は、不幸のどん底から抜け出る事はありません。また、死後、安らかに成仏する事はないのです。


生きるうえでもっとも大切なことは愛であります。愛情をもって仏に接し、愛をもって人に接すれば、多くの問題は解決されるはずです。


社会問題になっているいじめも、親が子供に、愛をもって他に接することを教えつづければ、無駄に幼い命を捨てることもないでしょう。


そして、今、生きていることを大切にしなければいけないのです。

苦しいからといって投げ出してしまわないことです。
この世に生まれる前から、努力と心がけ次第で、暗い人生は明るくなることが約束されているのであります。


霊は、人間の心次第で、想像以上の力で優しく守ってくれるのです。


反省する心、素直な心、人にたいする愛の心を忘れなければ、どんな人間でも、どん底から抜け出せる可能性があるのです。その心を見失った時は絶望しかありません。未来永劫、不幸の連鎖となるのです。


人生最後の日まで、素直な気持ちで、現世の苦しみを乗り越えていく努力をしなければならないのであります。


人はこの世を終わる時、いろいろな形で去って行きます。長寿を終えて静かにベットで最後をおくる人、事故に巻き込まれて不本意な亡くなり方をする人、見ず知らずの人に命を奪われる人もいるでしょう。


そんな中で、絶対にあってはならないのが自殺であります。

自殺者はなかなか成仏できないからです。


人はこの世を去り、はじめて霊界を歩く時、自殺霊は大切な命を自ら絶ってしまったことに対する嘆き、悲しみを先祖霊から知らされるのです。


また、そのような死に方をした人に対し、先祖霊は手を差しのべてくれないものです。その辛さは言葉に尽くせません。自殺者のたどる道は、いばらの道しかないのです。深い後悔の念を背負うことになります。


自殺した霊への供養は、自分の家で先祖供養する時、一番最初に、自殺した人の名を呼んであげて下さい。戒名でも生前の名前でもどちらでも結構です。

「早く成仏してください。来世では二度と自ら命をたつような間違いはしないでください」と心の中で念じてあげてください。


そして、自分たちは、あなたのことをとても心配しています。

決して忘れることはありません。

あなたに幸せな仏になってもらいたい、という真心を伝えてあげなければいけません。


自殺した霊が一番欲しているもの、それは自分を理解してくれる身内や人の愛情です。自殺者の霊に誰も愛情を向けなかったならば、生まれ変われないと思います。


人間は、体が滅びても魂は生き続け、様々な霊界を通リ、修行の時を超え、やがて生まれ変わりを迎えますが、自殺霊は、そのようなチャンスがなくなるのです。そのため、そのチャンスを生きている人がつくってあげないと、二度と自殺霊は復活することはできないと考えてください。魂の復活を決めるのは、生きている人が自殺者におくる愛情、それしかありません。そのため、供養の順番も先祖をあとにしても自殺者を、まず第一にしてあげなければいけないのです。一番最初にお線香をあげたり、お経をあげたり、語りかけてください。


あなたに一番重きをおいていると自殺霊に示してあげることが大切なのです。その自殺霊の魂が愛情によって豊かにならなければ、生まれ変わりのチャンスはないと理解してください。


自殺霊が自分の死を間違っていた。今度生まれ変わったらこんなことは絶対にしない、なぜならば自分の遺族が、これほど愛してくれているから、という強い信念が必要なのです。

自殺霊の行く霊界は辛いところですから、遺族のおくる愛情で早く辛い霊界を通リ越し、また愛する家族の元に帰れるように、どんな辛い道でも進んで行こう、という一つの励みがないといけないのです。

その励みは、休むことなく、自殺者の背中をしっかりと押してあげなければいけないのです。


霊に対し、本当の愛情を送れるのは、遺族や親友くらいしかおりません。

葬儀、回忌法要も大変重要ですが、何より大切なのは毎日の愛情ある語りかけなのであります。








集合住宅に住む場合、何階に住んでいようとも、その土地の歴史を調べてみることは必要でしょう。
そこが墓地であった、処刑場だった場合、それは心配です。


もし、現在、集合住宅に住んでいて、入居してから精神的に不安定になった、イライラして落ち着かなくなった、仕事が手につかなくなったといった症状が出たならば、その土地の前身を洗ってみてください。霊の障りの可能性があります。


ですが、墓地や処刑場跡地のほとんどは、公園などの公共施設になっていますから住宅地として使用されている例は少ないようです。


墓地跡地、処刑場跡地に建てられた集合住宅に住んでも、霊障とはまったく無縁で生活できる人もたくさんおります。


霊障に遭いやすい人は、霊の存在を無視したり、霊をバカにしている人、または、なんでも霊のせいにしてしまう人です。


集合住宅で飛び降り自殺などあると、前に亡くなった霊が波長の合う人を呼び寄せて、同じ場所から飛び降りる人が出ることがあります。


集合住宅に住んでみたものの、何となく気持ちが悪い、なんか霊障らしきものがあるのではと疑いをもったならば、無縁の霊にたいして供養をするとよいでしょう。


どんな霊であっても、ご供養されると嬉しいものです。自殺者が出たら無縁の霊にお水、小皿に少しのご飯、お線香を一年間くらいあげてください。「無縁の霊へ。ご供養をしてさしあげますので、ここに住んでいるみなさんを困らせないで下さい。早く成仏して下さい。」と手を合わせながら、やさしく、声に出して語りかけてみてください。霊は、素直に、その場から立ち去るはずです。


ご供養をしてあげると、無縁の霊は、供え物をいただきには来ても、悪さをしなくなります。これだけのことで、十分なのであります。お祓いなどを、誰かに依頼する必要は全くないのであります。


犬猫の合同霊園跡地や持ち主が異常に執着していた土地、火事の焼け跡などは購入は避けるべき土地です。ただし、哀しみや恨みに満ちた土地であっても、ご供養によって霊は退散してくれるものです。

ご自身で上記の様な方法で、心のこもった供養をすれば十分であることを覚えておくとよいでしょう。
特別な人しか供養できないという事は、決してないのであります。




自分の金儲けだけを考える人。
自分を犠牲にして他人に尽くす人。

このような人は、真の幸福や財を得ることはできません。


世の中の宗教は、ほぼ例外なく利他心ばかりを尊びます。
自己を犠牲にして他者のために尽くした人間が敬われ、見習うべきとされています。


しかし、利他心だけで幸福な社会は築く事はできないのであります。
自分自身は満足できたとしても、親や家族は悲しみ、不幸を味わうことになるからです。ここに大きな誤りがあります。


弘法大師 空海は、自利利他の精神をもってしか密厳浄土(理想の社会)をつくることはできないと考えました。


すなわち自分も他人も幸せにできる人だけが、成功者となるのです。


人を幸せにし、自分も幸せになるとはどうゆうことなのか。そのヒントは、自身の中に眠っているのであります。



心からの供養ということについて、考えてみたいと思います。


人間関係をよくするためには、お互いに思いやりの気持ちが必要です。また、コミュニケーションが不足しては、良好な関係も長くは続かないでしょう。


家族でも、会話が不足しては他人の集まりのようになってしまうものです。
先祖との関係も、同様に考えてみるとよいのであります。


先祖も家族の一員と考えてみるのです。たまたま、生命を持った存在としてお茶の間にいないだけの話です。


供養とは、つまり先祖とのコミュニケーションと思えばいいのです。いつもコミュニケーションを保っていれば、お互い家族の一員として相手の事を気にかけてくれるでしょう。


よいコミュニケーションを保ってさえいれば、現実界に生きている私達を見守っていてくれます。そして、力を貸そうとしてくれるのであります。