人の生は、生かされている、という考えも大事。
自分の意思で生きる・主体的に生きるというには、人生(運命とも云える)は人にとって、あまりに巨大な相手で、受け身にならざるを得ません。
どんなに努力して頑張っても、人ができることは限られています。
運命に翻弄されるのが人の人生でしょう。
そういう意味で、人は生かされているのです。
誕生も死も、思うようになりません。
人生の仕組みもデザインも、自分で考案できるものではありません。
神はいないけど、自然の摂理は、人間の力をはるかに超えています
普遍的法則も人には不明です。
どんなに賢くなっても、人が考えることは大したことではありません。
人の脳の限界です。人の認知力の限界です。
言葉を使ってしか考えられない人の限界です。
言語は、役に立ちますが、気休め程度の道具です。
人はそのように無能な状態で生きざるをえません。
それだから、生かされているのです。
囚人が刑務所の中で生かされているのと大差ありません。
刑務所から脱出することは不可能です。
ある日、突然、死刑の日がやってきます。
病気や事故などがきっかけです。
死がいつやってくるか、人には分かりません。
すべて、人の能力を超えています。
人はひたすら、囚人であることに耐えるしかありません。
生かされているのです。
私は、人生経験から、大事なことを学びました。
それは、自分や私や自我や自己などという概念が意味する対象は、もともとない、この世にない、という実感です。
人がこの世に生きるというのは、群れや集団、社会の中で生きることです。
自分を特定する概念として自分や自己がありますが、それは、社会を生きるために人がつくりだした概念です。
自分の名前が頻繁に変わると、社会生活できません。
自分は同じ、時間の経過があっても同一人物であるという約束事が社会生活で不可欠なのです。
しかし、実際のところ、人は時間の経過と共に変わります。
極端な例では、殺人犯の極悪人であった人が、聖人になったり、優れた教育者で人格者になったりします。
人はいくらでも変化できます。性格を変えるのも簡単です。
人は年齢と共に、大きく変化します。
同じ名前であっても、内実は別の人間になります。
自分や自己というものは変化するものです。
変わらない不変の部分はどこにもないかもしれません。
人は成長とともに、変貌します。
自分や自己という概念は、中身が変化します。
変わり過ぎるので内実や実体はあいまいで不明です。
人は自分が変わらないと思い込んでいるが、実際は大変化しています。
自分や私はアメーバのように変わり、固定し決まった形はないのです。
自分はない。そう言い切ってもいいのです。
つまり、死ぬまで変化続ける化け物です。
例えば、空の雲のように形が変わります。
もし、自分がないとしたら、死はどうなるでしょう。
死もまた、なくなります。死すべき固定した自分はないからです。
人は一瞬を生きる生きものです。人には一瞬しかありません。過去と未来は一瞬の中にあります。一瞬というのは、ある時間の経過を示しています。ある人にとっては、10年かもしれません。また、ある人にとっては、非常に短い時間です。一瞬が極限まで短くなるのが死と言えます。
生かされているというのは、そういうことだと思います。一瞬を感じて味わうようにつくられているようです。そして、一瞬であるが故に、いつか消える。泡がはじけるように。イノチは尊い、そして死はもっと尊い。
死こそ、人に与えられた最後のご褒美です。長い間の苦労に対する神からのご褒美です。ご褒美である故に、私は、死は気持ちいい体験になると確信している。
先月はブログを出さなかった。
そのかわり。