妻の体はどこにもない。
しかし、私の実感は、妻の存在を強く感じる。
人が生きているとは、意識があるから。
意識は実感する能力。
おいしいとか、痛いとか、うれしいとか。
それがなくなるのが死。
しかし、私には、妻が実感できる。
つまり、妻は生きている。
時には、話しかけてくる。
人が生きるのは意識のおかげ。
意識は当人しかわからない。
人の意識は推測するだけ。
さて、意識がつくる世界がこの世。
ある意味、意識がつくる世界だから、
当人しかわからない、
即ち、当人が思うだけの幻想やマボロシともいえる。
この世といえど、それほど確かなものではない。
さらに、78年の人生経験で、私は、
人には、こころ、魂、精神なるものは存在しない、
という結論に達している。
こころがあると思うのは、
人は犬や猫と違い高等な存在なのだという、普通の人がいだく、
ひそかな願いが概念となったのだろう。
思い込みの一種である。
こころは存在しない、
理由の第一、常に変化して、決まったものがない。
いつも、漠然として定まっていない。
こころを生み出す過去の体験の記憶や無意識、
それらは、つかみどころがない。
精神分析の難しさは、精神なるものが安定していないこと、
常に変化し、明確でないことから生じる。
こころの病は、人の平均値からどの程度離れているか、
それしかわからない。
人は、すべての人は、いくらか異常でいくらか正常。
その境界は明確でない。
発達障害がその典型。
例えば、吃音は発達障害と言われているが、
日常生活を問題なく過ごせる人もいる。
発達障害を苦にする人もいれば、
私のように、吃音を宝物のように有難たく思う人もいる。
私の自慢の一つが、吃音であったこと。
また、一つは、短い人生で、願いがほぼ実現したこと。
人として生きるというのは、どういうことか、
だいたい分かったこと。
つづく