昨日のブログで、「誠実に生きる」ことを書いた。
誠実とはどういうこと。
今の私には誠実の意味がわからない。
どんな人も、その時、その場、固有の環境と条件の中で生きている。
その選択の多くは、特別な判断や選択が稀に起こるが、
過去からの経過の上にある。
さて、誠実とは何だろう。
もし、何らかの約束していたなら、約束は守らないといけない。
約束を果たすことができなくなれば、それ相応の反省と補償が必要になる。
対人関係なら、それで済むが、
自分自身との約束の場合は、少し違う。
約束を破っても、言い訳はいくらでもある。
先延ばしの可能。
約束を無視するのも可能。
時には、約束を破る方がいいこともある。
誠実に生きるとは、何だろう。
どんなに真摯に努めても、できないことがある。
従って、責めを負うことはないだろう。
できないことは、仕方ない。
どこまでが可能で、それ以上は無理か。
その境目は誰にもわからない。
誠実とは、自分自身との約束を忘れないことだとしても、
そこには限度がある。
世の中には、周囲の流れのまま身を任せるように、
自分独自の判断を避けて生きる人がいる。
私の父親がその典型。
それも一つの生き方。
それで一生無難に生きられるなら、
それもいいかもしれない。
しかし、むなしい生き方かも。
どこにも個性がない。
せっかくこの世に生を受けたのだから、
自己実現した方がいいのではないか。
自己実現というのが、あいまいな概念。
もともと、自己なるものがあるなら、正当性もあるが、
もともとの自己などないかもしれない。
私はもともとの自己などないと思う。
自己は私や自分が好みで作るもの。
一生かけて作り上げていく、芸術作品。
別に作らなくてはいけない、というものではない。
自己など作らなくても、流れに乗って、
おもしろおかしく気楽に生きるということも立派な生き方。
無理をしないで、何事も平穏に。
そのやり方ができる人もいる。
自己実現は、自己がある人だけができる生き方。
自己を好みで作れる人だけの生き方。
誠実と自己実現、
どちらも、非常に不確かなもの。
77年の人生体験を経た今の私は、
誠実さや自己実現の意味を疑っている。
それよりも、大事なのは、
一生が幸せであったか、どうか。
幸せなら、すべて許せるというのが、私の結論。
もし、ヒトラーが最後まで幸せであったなら、
彼の業績も許せるだろう。
しかし、それはあり得ないと思う。
彼は自殺している。
幸せな人は自殺したりしない。
誠実とは、自己の成長を促し進めるような方向。
これもまた、難しい価値。
心や精神の成長とは何だろう。
心や精神が、人にあるかどうか。
それも疑わしい。
人は肉体的には成長する。
しかし、心や精神が成長することはないだろう。
人生経験を経た私の結論。
こころや精神は、人の中にはない、と私は思う。
立派な人がいるかもしれないが、
人は立派にはなりえない。
こころや精神が清く気高く立派な人は、この世にいない。
それが現実。
人が生きるというのは、
誰にとっても、非常に難しいこと。
生きる過程で、問題は無数に起こり。
その対処も大変。
清いこころや精神を養い維持するには、人生は汚い泥沼すぎる。
つづく