Quoraの質問「お釈迦さまは何を悟ったのですか、高校生でも分かるように教えてください」というのがあり、下記のように回答した。

 

高校生でも分かるようにということですが。それは不可能です。

人の世は、体験しないと分からないことばかりです。

例えば吃音という小さなテーマを取り上げても、体験しない人に大変さを伝えるのは難しいのです。

私は釈迦が何を悟ったのか、知りません。伝聞やまた聞きの知識は全く当てになりません。

 

私が高校生の時、人生で何をしたいのか考えたことがあります。

二つの目標がありました。

一つは「人として生きるというのはどういうことか、それを知りたいということ」、

もう一つは「この社会を変えようということ」。

 

社会を変えるという目標は達成できませんでしたが、

人として生きるというのはどういうことか、それは、ほぼ分かった感じです。

ある意味、悟りとも言えます。

しかし、私の自己流の悟りを高校生であるあなたに伝えるのは、ほぼ不可能です。

 

人が生きているのを実感しているのは、意識があるからです。

意識がすべてのもとになっています。

人の意識がどのようにして生まれるのか、

それが分かれば、生きるということの半分以上が理解できるようになります。

 

高校生であるあなたの体験や学びに基づく現在の知性では、

意識の誕生を説明しても理解不能だと感じます。

 

私のブログで、このような問題について、断片的に書いています。参考になるなら幸せです。

(回答はここまで)

 

年取ると人の世に対する感じ方が、若い頃と比べ全く逆になる。

 

その一つが、若さに対する感じ方。

「若いっていいな」と思わなくなる。

可能性がある、活力がある。それほどの魅力は感じなくなる。

むしろ、可能性も活力もない方が、気楽でよくなる。

 

若い人を見れば、

むしろ、あわれに感じてしまう。

これからの人生行路を思い、かわいそうにと思う。

あまり苦労しなければいいが、と。老婆心が起こる。

 

私は自分の苦労を、苦労と思ったことがないが。

私は人生において、努力という程の努力もしていない。

流れるままというのがふわさしい。

 

流れるままに生きてきて、

すべてが良い結果をうむようになった。

そして、終末が近くなり、

人として生きることの空しさを感じている。

 

確かに、この世は天国で楽園。

それは間違いない事実。

 

しかし、天国で楽園であるが、

人の意識がつくるマボロシであることは変わらない。

マボロシはどこまで行ってもマボロシのまま。

 

マボロシと知るようになって、

この世との距離をおくようになった。

だんだんと、現世から遠ざかる感じ。

 

あくせくやジタバタはない。

幸せを求めるという願いもない。

願いや思いほど、むなしいものはないからだ。

 

何かを信じて生きているのが人の常だが、

何も信じることがなくなれば、

もはや、この世ともおさらばするしかないだろうと感じる。

 

この感じを高校生に伝えるのは不可能だろう。

すべてを成し遂げて、

思い通りの結果を得て、

ようやく、分かることかもしれない。

 

(上記は2年前のブログです)