妻(天使のひとり)が死去して2週間になる。
生活の変化は予想通り。
というよりも理想に近い。
永眠した本人も、死んだことを知らないだろう。
周囲の家族にとっても、別れではない。
人の死について、私は人生経験から、確信を抱くようになった。
簡単に説明すると、この世は人の意識が作った世界にすぎないということです。
人の意識が作った世界は、その人だけの固有の世界。
客観的で確かな世界かどうか、人は知ることができない。
人が知り体験できるのは、あくまでも人が作った世界だけ。
人が生きるのは、その人固有の世界の中だけ。
それ以外の世界は人の能力(知性や感性)では知りえないもの。
人が死ぬのは、その人固有の世界がなくなること。
言い換えれば意識がなくなること。
人は死んでも、自分の死を体験できない。
いつ死んだかも知らない。
いつの間にか眠りに陥っている睡眠と同様。
ただし、目覚めることはない。夢を見ることもないでしょう。
人は死ぬけど、死ぬ当人は死んでいることも知らない。
簡単に言って、人にとって死は体験できないこと、
ある意味、ないものと同様。
つまり、人は死ぬことはないのです。
では、生きているときは、人は確かな世界に生きていると言えるでしょうか、
それもまた、かなり怪しい思い入れ。
実感を伴う意識が作る世界は、実感があるが故に、
正真正銘あると思い込んでいるだけです。
人の脳が作る意識は、そのような自己正当化の自己撞着が大好きです。
人には死がない。というのが私の結論です。
ただし、人が死ぬことは、とても良い意味がある。
それは、自我がつくる私や自分という概念から解放されることです。
私や自分という感覚や知覚は生きている限りつきまとう。
つまり、生きている限り、人は自分や私という牢獄から逃れられない。
人にとって、その牢獄はとても気持ちいい世界です。
自己満足であれ、自己に対する信仰であれ、自己欺瞞であれ、プライドをもった自己尊厳、自分という特別な存在への愛着、それらは一生つきまとう。
ただ、死によって、死だけが、この牢獄からの脱出を可能にする。
これこそ、死が私たち人に与えてくれる恩恵、救いなのです。
死によって、やっと、自分から解放されるのです。
死こそ、人が待ち望む最高の栄誉だと私は思います。
だから、死は忌むものではなく、喜んで受け取るべきプレゼントだと思う。