「私は存在するのか?」

勿論、答えは、「今、まさに生きている」。

 

質問の趣旨は、

私や自分という概念のこと。

 

私や自分という概念は、意識が根底にある。

意識がなければ、概念も生まれない。

 

意識が生まれるのは、過去の体験の集積があるから、

全身の神経ネットワークが休みなく動いているおかげ。

ネコや犬にも当然、意識はある。

 

しかし、ネコや犬には自分や私という自覚はない。

私や自分と意識する必要がないからだ。

自分以外の他の犬や猫と、自分との違いはあまりに明確。

自分という区別は必要ない。

 

人の場合も同様だ。

瞑想していると、私や自分の世界のただ中にいる。

そこに他者はいない。

外部の世界も遠い。

 

私や自分だけの世界。

意識だけの世界。

 

自分の意識の内面を見ると、

そこは、茫漠と広がるだけ。

 

そこは世界であるが、

だだっ広く、あるだけ。

意識の下には、もっと広い世界があるはずだが、

意識には上がってこない。

 

人は私や自分という概念をもっている。

これも出生後の体験で生まれる。

人の集団の中で生活するからだ。

他人との違いを意識せざるをえない。

他人にもいろいろある。

巧妙に騙す相手もいる。

 

瞑想は自分の内面との対話。

自分や私とは何かを探索すると、

そこに、私や自分というオリジナルなものはない。

他から与えられた環境刺激によってつくられたイメージばかり。

 

私の場合、吃音という体験、

これだけは自分独自なものと思っていたが、

どうも、自分独自なものではない。

同じような体験している人が多い、

 

吃音は言葉を発しないと現れない。

言葉を発するという場面は社会的な場。

独り言では吃音とならない。

 

対人関係では、私という意識が出てくる。

この私という意識が吃音のもとになっている。

 

私という概念が意識の中でつくられるのは幼児期。

他人と違う自我が育っていく。

 

入力された情報(体外と体内から)を脳が処理して

私や自分というイメージがつくられる。

 

それらの情報の多くは、条件反射をつくる。

その人特有の癖や感じ方や考え方。

吃音もその一つ。

 

それら個々の条件反射は、いくらでも変更できる。

当人が意識すれば、変えられる。

中には変えるのが難しいものもある。

吃音がその一つ。

 

胎内と生後に形成された条件反射の総体が

私や自分や自我というものになっていく。

 

しかし、条件反射の全てが自覚されている訳ではない。

その多くは、意識に上がってこない。

一生、無意識の領域にある。

時たま、夢の中に断片が出てくるが。

 

私や自分をつくる条件反射の多くは自覚されない。

例えば趣味、なぜ、自分はこうするのが好きなのか、

人は理由を知らない。

 

私や自分という概念は、

社会生活を円滑にする道具・スキル。

名前という自己同一性の保持につながる。

 

人は成長と共に、人格も正確も大変化する。

まったく異なる人への育っていく。

しかし、名前は同じまま。

中身は違うのに、レッテルが同じ。

明らかに、不当表示だが。

 

つづく