人に本当の自由があるのか?

私の回答は下記。

 

人の行動は、どんな場合も、ある種の選択の連続です。

しかし、日常生活の細部まで選択していたのでは、時間がなくなります。

歯磨きなど毎日の決まりきったことは、同じことの繰り返しで時間を節約します。

脳の処理能力に限りがあるので、合理的な判断です。

 

そして、過去の経験により、選択の幅は決められています。

全く体験していないこと、誰からも聞いたことがないことは、

選択肢になりません。

選択の幅は、行動する前に決められています。

この意味で、人には自由がありません。

 

しかし、選択の幅の中では、自由に選ぶことができます。

この意味で自由があります。

 

自由というのは、人にとって、尊厳と同じでしょう。

奴隷は自由がありません。基本的に許された範囲でしか選択できません。

だが、たとえ許されなくても、禁止事項を破る自由はあります。逃亡の自由です。

 

奴隷以外の普通の人は、基本的に自由です。

しかし、選択の範囲は、個々人の過去経験で決まるので制約があります。

 

お金がたっぷりあっても、使い方を知らないと、お金がないのと同じです。

逆に、お金がなくても、どうにかできるスキルがあれば、

お金があるのと同じです。

お金などのモノは、人の自由度にとって小さな要素にしかなりません。

 

もし、自由度を広げたいなら、たっぷりと経験するしかないでしょう。

しかし、人生は短く、これにも限りがあります。

 

自由度がたっぷりとあれば、それでいいかと言うと、

それもまた、難しい問題を与えます。

色々と魅力ある中から選択する悩みです。

 

個々人にとって何が最良最適な選択であるか、

その答えを出すのはほぼ不可能です。

何故なら、個々人の特性や好みや思い込みや偏りがあり、

個々人で事情が違い過ぎて、手本や見本やマニュアルはありません。

未来予測も人にはできません。

それらを含めて、最適解は存在しないからです。

 

人に自由があったとしても、

一番良い選択肢を選ぶのは不可能なのです。

結局、

その場の気持ちや雰囲気や、その時の思いや流れで決めるしかないのです。

そうして、結果として最悪の選択をしてしまうものです。

自由というのはそういうものでしょう。

 

これは、奴隷の不自由さと同じくらいに、

個々人の思い通りにならない、狭い制約の中に生きているようなものです。

人にとっては、自由があっても、この程度です。

 

私は、人にとって自由というのは、

人の尊厳と同じ程度に、無意味な概念だと思います。

たぶん、自由でありたい、尊厳を保ちたいという、

人のこころの密かな願いが、そうあって欲しいと思う故に、

人の思考を大きく歪ませているのでしょう。

 

人生は一度きりだから、自由はない、と私は思います。

しかし、死刑囚となっても、立派な生き方です。

満足し、かつ、幸せに生をまっとうできると思います。

 

自由があってもなくても、

人には実感があります。

生という実感です。

美味しいものを食べ、人を愛し、

家庭をつくり、充実した人生を実感できます。

この実感が、生きるすべてだと私は思います。

 

思いつくままに書いてみました。