人が生きるとは、個性や特性を発現すること。
しかし、個性や特性は遺伝子と環境が決める。
当人の希望や努力よりも、与えられた条件で決まる。
人生の長さも当人の思いどおりにはならない。
人が手にする生は、今という瞬間だけ。
今が充実していれば、それで満点だろう。
そして、言えること、
大きな願いは実現不可能。
人類や社会を救いたいなど。
たまたま、その時代、その場に居るのが人のありよう。
どんな場所であるかは、当人のあずかり知らぬこと。
誰と友達になり、誰と親子であるか、
それらも、当人にはどうしようもない。
どうしようもないが、
友なら友らしく、
親子なら、親子らしくするのが、人の生き方。
社会を良くするとか、
ある個人を救うなど、勿論、人にはできない。
そのような能力は与えられていない、やり方も知らない。
人生は、デタラメに試行錯誤し、じたばたして、
いくらか結果が出るだ、それだけ。
人であることの限界。
ただし、
わずかな違いこそ、大いに重要ではあるが。
22世紀、AIとロボットの進化で、
人の生き方は随分楽になるだろう。
多くの病からも解放されるかもしれない。
楽になるが、人は賢くなるわけではない。
もしろ、責任放棄や判断から逃げる人が多くなるだろう。
短い一生だから、おもしろおかしく。
自分だけは、安全で楽しくあればいいという、
そういう生き方が主流になるかもしれない。
そうならば、人類社会も未来がなくなるだろう。
昔の人は、名誉や正義や大義のために
自死さえも厭わなかった。
おのれのイノチを超える価値があった。
これからの世、名誉も正義もない時代。
大事なものは、自身の健康や幸だけ。
だが、健康や幸は、当人しか実感できない。
・・・
質問
「この我々が住む世界がバーチャルリアリティーではないということを証明できますか?」
私の回答は下記。
人が生きているのは、意識があるからです。
意識とは、当人の実感に他なりません。意識=実感。
実感は、痛いや嬉しいという知覚です。
この知覚自体を、当人以外の人が知るには、様々な証拠から推測するしかありません。
当人の痛みがどのようなものか、当人以外に実感できないので、
推測するしかないのです。
当人の訴えや表現内容や痛みを示す顔の表情などからです。
このように当人の実感を知るのは、本当に難しい。
遷延性意識障害のある人の意識があるかどうか、
これも非常に難しい。
脳波がない、刺激しても反応がない、しかし、意識がないということにはなりません。あるかもしれないのです。
さらに、人の世、この世で、どんな事象も実在を証明するのは、
ほぼ不可能です。
何故なら。事象があるかどうか、それ自体が怪しいからです。
意識があるかどうか、実感があるかどうか、
当人以外には分かりようがありません。
ただ、いろいろな証拠から推測するしかありません。
例えば、言葉(概念)がそういうものです。
言葉や概念があっても、指し示す実体がないのです。
赤という言葉はあるが、赤はどこにも存在しません。
数という概念はあるが、数はどこにも存在しません。
人の世は、そういうものです。
人の世に、確かで疑うことができない事象はどこにも存在しないのです。
そこでバーチャルリアリティーも、当人が実感する限り、
ある一定の真実があるでしょう。
しかし、それが確実に実在するかどうか、その証明は、人にとって不可能でしょう。
人が生きるというのは、ある意味、バーチャルに近いのです。
幻想ともマボロシともいえます。