自分とは何か。巨大なテーマです。考えてみました。

 

まず、人の意識について考察しましょう。意識はどうして生まれるのでしょう。

何のために意識を獲得したのでしょうか?

これについては次回のブログで説明します。

 

人の意識は、その人の経験の全てが基礎となって生じます。

その大部分は意識下で意識にのぼってこない記憶情報です。

 

例えば、人の癖は、それが発現するきっかけとなる出来事がありますが、

通常、忘れてしまいます。

人の脳は、その時、その場の重要事項にフォーカスします。注意が向かう方向しか意識されません。

 

人の脳が蓄えている記憶情報は巨大です。大部分は一生、思い出すこともありません。

しかし、その人の性格や好みや感じ方を決める重要な要因となります。

人の表面的な行動特性は、意識下に隠された過去体験から作られると言っても過言ではないでしょう。

 

生育過程で言葉に親しむにつれて、記憶情報の整理が行われます。

言葉にできる情報は、より明確に記憶されて、意識の表面に上がってきます。

言葉というのは、決められた規則があります。概念の意味や文法などです。

 

例えば、赤という言葉を取り上げると、客観的意味と主観的意味(クオリア)があります。

客観的意味はコミュニケーション可能ですが、主観的な感じは当人しか分かりません。

客観的意味によって世界を説明するのがコミュニケーションです。

 

人は生まれるとすぐ、名前が与えられます。一生つきまとう属性です。

年齢を重ねて、経験が豊かになっても、名前は変わりません。

同じ名前が継続するのは、社会の中で生きるために守るべき重要ルールです。

しかし、当人は年齢と共に、経験を重ねると共に、変化します。性格特性や人格が変わることもあります。

 

同じ名前が続き、かつ、昨日と同じ自分であることを周囲から求められる環境の中では、

自己同一性の信念が堅固となっていきます。

 

自分という概念が生まれるのは、このためです。

自分のもの、自分の考え、自分の世界、自分の家庭です。

 

自分と他人は、どこが違うのでしょう。

自分についての情報は、他人についてよりも格段に豊かです。

しかし、自分について、どのくらい知っているかとなると、ほぼ無知です。

なぜなら、意識に上がってくる記憶は、過去経験のほんの一部だからです。

自分の内面にどのような衝動が隠されているのか、人は知りません。

これが、精神的発病の大きな原因となります。

 

なぜ、この異性にひかれるのか、人は知りません。

なぜ、自分はこの趣味にのめり込むのか、人は知りません。

 

自分という言葉と概念は、自分は生まれてから一貫し同じものが続いているはずであるという、この世の通念に基づいています。

自分と云う言葉は、自分の中身や実態について、ありのままに指し示すものではありません。

自分の中身は不明の領域が圧倒的です。

自分という言葉が示すのは、単なる通念だけです。

つまり、人の人格のごく表面的な属性です。

名前や住所のような情報です。深い内面まで示すものではありません。

 

その意味では、自分という言葉には中身がないとも言えます。

 

「自分とは何か」

その答え、自分という概念は中身がからっぽ。

表面的な断片しか分からない。

 

全ての人は、自分が何であるか、知らない。

一生の経験を経ても自分のある面、ほんの一部が分かるだけです。

残念ながら。人であることの限界でしょうか。

 

つづく