長く生きると、

人として生きることの限界が見えてくる。

言葉や概念を使うという限界。

 

言葉や概念は単純に云って、記号にすぎない。

記号は有用な道具であるが、指し示す実体はない。

人の意識が生む抽象的像やイメージから作られた道具。

普遍的な意味はない。

従って、法則や原理とも無縁。

 

加えて、意識という限界がある。

意識は脳がつくる虚構。

実像ではない。

あくまでマボロシ。

マボロシだけど充実した生き方はできる。

実感があるためだ。

 

感覚器官がつくるイメージや感覚。

今、この一瞬を生きる人が感じる実感のこと。

美味しいもの、美しいもの、楽しいことはある。

人の記憶と意識体系がつくる実感。

実感はあるが、実態は虚像。

 

極論を云えば、

人が生きるうえで、一番重要なことは、

価値や意味ではない。

社会貢献でも人類の繁栄に利することでもない。

善悪や正義や富や偉大や尊敬にあたいすることでもない。

 

一番大事なことは、一瞬を味わうこと。

その実感。

 

長く生きると、

長く生きるという無意味さが良く分かる。

一瞬が充実できる訳ではない。

もし、一瞬が100倍に充実するなら、長生きもいいかもしれないが。

そんなことはない。

一瞬は一瞬でしかない。

 

プーチンさんは権力のてっぺんで、

自分の偉大さを味わっているかもしれないが、

しかし、実態はただのエンターテイメントにすぎない。

オリンピックの選手と同様な娯楽を提供している。

ただし、与える影響は莫大だが。

 

若い頃は、人生の意味や価値について思う。

より素晴らしい生き方があるはずだと。

学歴や出世や名誉や実績や努力。

 

人生の終わりには気付く。

それほどの価値はなかったのだと。

墓に表示するほどの意味はないと。

この世に偉大な人も優れた人もいない。

 

プーチンさんは、偉大な皇帝として

永遠に飾って欲しいと願っているかもしれないが。

それは無理だろう。

 

たとえ、余命数ケ月と宣告されたとしても、

人は残念に感じる必要はない。

長生きしても、一瞬が長くなるわけではない。

今しか生きられないことは同じなのだ。

 

功績が永遠に伝えられるというのは、

歴史という作りものがまき散らす幻想にすぎない。