昨日のブログで、秋本氏について書いた。
何を考えているか分からない、と。
実は、私のイメージには明確な像があった。
しかし、それは口にできない。
十歳も年上。
さらに、彼の強い自負心。強烈なプライド。
詩人としての業績を誇っていた。
私には、人は愚かで当然。
年上だろうが、詩人として有名だろうが、
そんなことは役に立たない、と思う、が
口にはできない。
もし、秋本氏が健常者なら、
とっくに、付き合いを止めているだろう。
口にできないから、
彼の真実には迫れない。
従って、何を考えているか、確信がもてなかった。
詩ではなく、散文を書くように何度も促したが、
私の助言を聞く人ではない。
例えば、パソコンが使えるのだから、
ネットにつながると、可能性が開けると何度も勧めた。
全く、効果なし。
これでいいのだと言う。頑固者め。
散文を書かないと、
自分の内面の表現ができない。
詩では、伝えられない。
彼には、それが分からないようだ。
私に言わせると、
彼の詩は、あまりに作りもの。
自分の鎧をまとっているだけ。
中身を見せたくないので、外面をつくろうもの。
ナイーブで、劣等感が強い。
コンプレックスが尋常でない。
どろどろしたものがあり過ぎる。
それを表現しないと、
生きていることにならない、と私は思うのだが。
彼は、カッコよくしたいのだろう。
最後まで、強がりを押し通した。
私も同じだが、
自分を客観的に見るのは誰もが難しい。
特に、社会的な役職や名誉を得た人では、
非常に困難。
側が配慮してしまう。
特別扱いするのだ。
秋本氏も、どちらかと言うと、
特別扱いを常に期待しているようだった。
身障者ということもある。
詩人として名を成しているということもある。
私は、秋本氏を高く見ていない。
どちらかと言うと、上から目線の態度がある。
秋本氏をそれを感じていたのだろうか。
死後、数年以上になるが、
私にはそれが不明のままだ。
やはり、きちんと、
口にすべきだったのだろうか。
友である礼儀だったのだろうか。