最近の読書は、大活字本。

これなら、目の疲れも少ない。

今読んでいるのは、夏目漱石。

道草を終えて、明暗に入る。

 

図書館までの散歩の途中で、思った。

人と犬や猫は、どこが違うのだろうか。と。

人は言葉を駆使、概念で世界を捉えることができる。

道具としての言葉。これは、かなり役立つ。

言葉の中に数も含まれる。

 

このお陰で、社会をつくり、モノやサービスの向上。

便利な世の中ができた。

 

人々は豊かに暮らし、長生きできるようになった。

そして、地球環境さえ人工的に変えつつある。

 

しかし、便利な道具を使うからと言って、

人がエライわけではない。

こころや気持ちを捉える能力は昔と同じ。

人を愛する仕方も進歩していない。

 

例えば、家族の問題。

夫と妻のこころのすれ違い。

かげろう日記と漱石の道草を比べて、

こころの成長を感じることはできない。

 

道具は増えたが、

賢い使い方はできていない。

たぶん、これからも、進歩は期待できないだろう。

 

人も犬も、

意識の基本は同じだろう。

意識は主に皮膚感覚から生じる。

人も犬も、皮膚感覚が同じレベルだから、

人も犬も同じように感じているのだと私は思う。

危険を察知する能力などは、犬の方が格段に上だろう。

 

人と犬で一番の違いを考えると、

人は私や自分という幻想を抱いている点だと思う。

 

私という特別なものはない、どこにもないのに、

人は、それがあると信じている。

これは、生育環境で親から刷り込まれたのだろう。

人の社会には、自己という意識が必要になる。

与えられた名前があるから、自分があると感じてしまう。

 

私の結論を言えば、

人と犬に、大きな違いはない。

自然の肉体から生まれる意識は同じだろう。

 

違う点の一つ、犬は死を知らない。

犬には私や自分がないから、私が死ぬことはない。

肉体は死ぬが、死の体験はできない。

これは人も同じ。

 

続く