昨日のブログ。

「私がいないのだから、死ぬことはありえない。」

少し説明したい。

 

人の意識は、どのように生まれるのか。

受精後、胎内体験で記憶が積み重なっていく。

感覚系、主に身体内部の感覚系の記憶が大きい。

誕生後は、運動器官の記憶が増えていく。

手足の動きと、目や耳などの感覚系との連携。

記憶の質や量が飛躍的に増えていく。

 

脳に蓄積した記憶量が、ある一定のレベルを超えると、

意識が生まれるのだろう。

 

言語認識、人は生まれながら能力をもっているようだ。

音節を聞き分ける能力。

視覚も同様に、直線など図形を見分ける能力をもっている。

言語と事物との関連は、生後の体験で強化される。

 

言語発達で、意識は安定する。

継続性。

 

私という認識がいつ頃生まれるのか、

たぶん、環境が与える影響が大きい。

集団内の役割や序列などから始まるようだ。

 

集団内で名前が決まる。

これが自己同一性のおおもと。

 

顔の印象は、年齢を経ても変化が少ない。

自分は変わらないという思い込みが強化される。

 

さて、人は自分のことをどの程度、把握しているだろう。

胎内からの体験の全てを覚えている人はいない。

人が意識できる範囲は、とても狭い。

ほぼ99%の体験は、意識されなくて、

無意識下に捨てられている。

その大部分は、一生、思い出すこともない。

時に、ストレスなど酷い刺激にさらされ、

自我や自己の安定した統一が失われ、

病的になることがある。

そんな時、意識下のエネルギーが暴れ出す。

 

人の名前は、一生変わらない。

これは、社会生活上の必要からそうなっている。

しかし、人の内面や行動特性や性格などは、

いくらでも変化できる。

 

良い例が、舞台俳優。

役柄に応じて、いくらでも変化できる。

俳優の中には、その変化が激しくて、

自分がどういう人間であるのか、分からなくなる場合もある。

俺は社交的なのか、それともネクラなのか。

 

どのような人も、もともと固定した人格や個性はない。

人はアメーバのように自在に変化する生きもの。

環境が変われば、聖人にもなれるし、凶悪犯にもなれる。

 

私という人間は、こういうものであると、

はっきり言える人は、この世にいない。

人は、皆、例外なく、自分を知らない。

 

瞑想して、内面と対話すると、

自分独自のオリジナルがないことに気付く。

すべてに環境からの影響がある。

 

自分が何であるか、分からないのが人間。

私がいない。という理由の一つだ。

経歴などは、いくらか辿れるが、

実質や内面までは不明。

 

自伝を色々と読めば、分かるが、

人は皆、例外なく、自分の実体を知らない。

 

さらに、私がいない、という理由の、

最大の根拠は、

言葉には実体をあらわす能力がないということ。

言葉の限界。

 

言葉について考察すれば、

これは簡単に分かる。

 

言葉は記号に過ぎない。

実体そのものではない。

 

例えば、「りんご」ということば、

ある意味を示している。

形や味や匂いやどのように作られるか。

しかし、現実の一つの「りんご」を示すには、

このりんご。写真を見るか、手に取るしかない。

言葉では示すことができない。

言葉の限界。

 

例えば、数字。

1という数。

これは抽象的な概念。

1を示すことはできない。

1など、どこにもない。

2もない、無限もない。

概念としてはある。数学もある。

しかし、実体はない。

 

言葉を使って、何かを表現する。

例えば、私という概念。

これも、言葉では表現不可能。

私の一部なら、いくらでも記述できる。

たぶん、要素は無限にある。

胎内からの体験の全ての集合だから、無限。

しかし、無限を集めても私にはならない。

 

私は無限を超えている。

言葉を超えている。

私はどこにもない。

 

属性や要素で抽象的概念をつくることはできる。

とても役立つ知的作業。

しかし、概念でしかない。

実物ではない。

 

私という概念も、

概念に過ぎない。

概念とは、思い込みに等しい。

脳に刷り込まれた思い込み。

生活に役立つが、役立つだけ。

 

私は、どこにもない。

外から見る人にとっては、

名前のある個人だが、

名前はあるが、実体は不明。

 

今日はこのくらいで。

思いつくままに書いた。