若い頃は、自分しか見えない。

自分の意識の世界と、私との識別もできない。

自分が可愛くてしかたない。

自己愛から抜け出せない。

 

さすがに、73歳ともなれば、

意識世界の中で、自分や私が見えてくる。

 

私や自分を見ると、

この「いかがわしい」人物は誰だろうとなる。

変なやつである。

しかし、死ぬまで縁を切ることは不可能。

 

書くことや考えることを見ていると、

まるで詐欺師に近い。

いささか、うんざりするが、

愛すべき面もある。

 

さて、人の使う言葉。

詐欺師の愛用の品。

 

言葉や記号は、非常に役立つ。

すべての学問はこれがあるから成り立つ。

人が社会生活をおくるのに不可欠な道具である。

 

言葉や記号の意味は、概念と呼ばれる。

ある事象を指し示し、大まかな内容をあらわす。

 

例えば、りんごという言葉は、

赤くて甘く丸い果物をあらわし、

具体的な実物から抽象された意味がある。

 

りんごにも色々ある。

具体性を付与するには、無限の属性が必要となる。

りんごという言葉では

具体的なりんごを示すことは不可能。

 

同じ人と云っても、

人はいろいろで、各人が皆違う。

人という言葉は、具体的な実物を意味していない。

 

数字も同じ。

二と云っても、何のことか不明。

二は何も示さない。

りんごが二つと言えば、意味が与えられる。

 

言葉や記号で可能なのは、

あいまいで抽象化した概念。

具体的なものを表現はできない。

 

人の思考もまた、あいまい。

人の頭は情報の平行的処理ができない。

一つのテーマにフォーカスすることしかできない。

 

実際の事象では、何事もテーマは一つではない。

複雑で多重で多層なのが普通。

単純な事象はありえない。

 

人が考えることは、このように限界がある。

言葉という道具しかない。

 

せめて、テレパシーでもあれば、

少しマシになるのだが。

 

73歳になれば、

私や自分という虚構からも、

やっと、卒業できる。

 

私という意識世界はある。

私の肉体もある。

頭もある。

感じることも、情報処理もできる。

 

しかし、

意識と私は違う。

私や自分や自己や自我なるものは、

マボロシのものだと感じる。

 

意識や感性はあるが、

私という、何かあいまいで「いかがわしい」ものは

どこにもない。

 

さて、話は飛ぶが、

17歳の少年がタイトルを得たようだ。

喜ばしいことだろうか。

私は、いくらか哀れを感じる。

 

世界は広い。

しかし、将棋は狭い。

こんな狭い世界を生きがいにするとは。

可哀想になってくる。