昨日のブログに、いろいろなコメントがあった。
私という概念がないのに、どうして文が書けるのか。
この質問は、回答しなくてはいけない。
文を書くことなら、ロボットでもできます。
情報を入手して、それらを文にするだけです。
こころや自分や私は不要です。
今の自分・私。
これは創り上げたイメージ、創作、マボロシです。
創作というのは、あるイメージをまとめた作品です。
実体はない。のです。
私はない。という感覚・感じ。
これは、若い人には良くない考えです。
危険思想かもしれない。
私という自己同一性が、
若い頃は、絶対に必要です。
これがないと、成長や成熟ができない。
目標も希望も夢もなくなるかもしれません。
頑張ることができません。
人類社会の成長や希望や夢。
このために必要な道具です。
生活するのに不可欠なツールです。
人生というもの、
人が生きるということ。
ただ、飯を食って寝て、遊ぶだけが人生ではありません。
学んで、社会奉仕して、偉大なことをなして、
人類社会に有益な貢献して、
死んだ後にも、良いモノやことを残す。
それが、普通の人の生き方です。
それができるには、
やはり、私という概念が必要になるかもしれない。
私もそう思っていました。
年取って、死を感じるようになり、
そういうイツワリの虚構を続ける意味がなくなったのです。
何も残さなくていい。
生きるだけでいい。
呼吸しているだけでいいのです。
そして、死です。
肉体は死にます。
肉体にとって死は、気持ちいい体験となるでしょう。
肉体(脳も含めた)だけでいいのです。
意識も感情も記憶もあります。
行動特性も感情傾向もあります。
その人のあり様は同じです。
私がなくても、何も変わりありません。
しかし、私はもともといないので、
死ぬことはありません。
魂もありません。
輪廻転生もありません。
普遍的な真理もありません。
そういう決まったものはありません。
それでいいと思います。