論語に「70にして心の欲するところに従えども矩をこえず」とある。

聖人の見本のようであるが。

私も古稀を過ぎ、

この文句の欠陥が分かるようになった。

 

まず、70になれば、体力がなくなる。

良いことも悪いこともできなくなる。

道理も理想も、到底、体現できない。

矩に従うことさえ、できない。

 

さて、人の生に、この世に、

矩・道理・道徳・規範など、あるだろうか。

何が正しくて、何が間違っているか。

すべての基準は、恣意的。

その場、その時だけに通用。

人としての普遍的な指針はないと私は思う。

 

すべてのことが許される。

まさに、ニーチェの語ったように。

 

環境、条件、場がそうなれば、

何でもありえる。

 

釈迦の五戒、モーゼの十戒。

すべての戒律は虚妄。

例えば、うそをつくな。

うそと本当の違いなど、誰も分からない。

明確な線引きは不可能。

 

例えば、人は、夢と現実を区別することさえできない。

現実とは、多くの人が一緒に見ている夢かもしれない。

映画「マトリックス」はフィクションだが、

人の感じる痛みも、脳が作り出している。

統合失調症の幻覚はありありしている。

 

例えば、催眠法で、ただのエンピツを

「これは真っ赤に焼けた鉄の棒です」と被験者の腕に当てれば、

実際に火傷が生じて、痛みが起こる。と言われている。

脳がそのように認識するから。

 

先日のブログで、人と人の間の理解について書いた。

私の言う理解は、言葉による理解ではなく、

こころと心が通じ合うこと。

従って、長年の密接な関係づくりが前提となる。

もはや、言葉が不要になる間柄のこと。

 

言葉を使わなくてはいけない間柄というのは、

まだまだ、未熟な関係かもしれない。

 

人が生きる生命力は、本能や欲望とも言うが。

強すぎれば、社会の中で軋轢を起こす、

個性が強烈だと、生きるのも大変。

前人未踏の道しかない。

そこでは既成の価値は役に立たない。

 

正義も道理も真理も何もないのが人の世。

ひとり一人、自分独自の哲学を作って生きるしかない。

もちろん、他人が作ったものを借用してもいいが。

 

論語の文句、私なら、

「70にして本能に従い生きる、そしておのれの世界から矩は消えていく」と

書き直したい。

 

かなり、偉そうに書いてしまった。

少し反省。