人と人は理解し合うことができるだろうか。

理解するとは、こころが通じ合うこと。

 

相手に理解された、分かってもらえた、あるいは、

相手を理解した、分かったと、感じたとしても、

そのほとんど、たぶん全部が、

誤解や思い込みや一時的錯覚にすぎない。

 

人と人は理解できるのだろうか。

 

たぶん、言葉を媒介にすると、

まず、不可能だろう。

 

言葉は、限られた内容を伝えることしかできない。

言葉は、伝達手段としても不完全。

無限の言葉をつらねても、有限な説明ができるだけ。

 

言葉以外に、手がかりがあるだろうか。

こころがある。

霊魂がある。

 

こころは、その人固有の意識の総体にすぎない。

まとまりはない。

輪郭もはっきりしない。

あるとも、ないとも、言えるようなあいまいなもの。

 

霊魂。

これは、どこにもないだろう。幻想。虚妄。

 

自分が何かも分からない人にとって、

自分を伝えることなど、そもそも、無理な相談だが。

 

やはり、人の理解は、できないのか。

 

会話や意見交換は、理解を求めるものではない。

ただ、一方的に、伝えるだけ。

 

伝えることで、何かが生まれることはありえる。

たぶん、相互理解への小さな一歩かもしれない。

 

近くの寺で、仏教経典勉強会がある。

えらい坊さんが指導者。

昔、参加したことがある。

もう一度、行ってみようか、と思う。

 

坊さんに尋ねてみたいことがある。

人と人は、理解し合えるものだろうか。と。

 

人が理解できるなら、世の中も理解できる可能性がある。

 

だが、言葉を使い理解し合えるものだろうか、と。

 

佛教の経典は、言葉で書かれている。

やはり、言葉を確かなものだと確信しているのだろうか。

お釈迦さんは言葉で説教している。

言葉を万能だと思っていたのだろうか。

 

言葉はただの手段にすぎない。と私は思う。

ただの道具。

道具は、ある目的に対してだけ役に立つ。

すべてに通用する道具などありえない。

 

土曜の夜、軽く飲んで、

思いつくままに書いた。