子どもの教育を考える その3
 
親しかできないことを除き、
子育ての全てを社会が担う。
そして、
子ども一人一人が、多くの大人や年長の子どもたちに
守られて養育される。
 
子どもの個性はとても多様で千差万別だから、
どんな専門家であれ、子どもの全てが把握できる訳ではない。
個性的であればあるほど、
多様な大人がかかわらなくてはならない。
 
子どもたちへの愛とは、簡単に言えば、
潜在的な力を伸ばすようにかかわること。
そのかかわりにより、自己と他者が、
相互に啓発する対等な関係になれば理想。
 
子どもの自立は、
各人が、自己の判断で、人生進路を決めるようになること。
 
子どもたちは、4歳くらいから、
言葉や芸術や学科や運動技能を学ぶようになるが、
その選択は各自に任せられる。
多くの選択課題から自分で好きなものを選ぶ。
 
全ての子どもは、4歳になれば、
地域コミュニティ内の思い思いの塾に通う。
地域には多様な趣味や技芸をもつ大人がいる。
子どもに教えるのが好きな大人たちは、
様々な塾を開く。
 
一対一で教えるものから、数名一緒に教えるもの。
塾に通う子どもたちも同一年齢ではない。
年の違う子どもたちが、
共通の学びで刺激しあう。
 
未来の教育が、
現在と異なる点に、
学校という施設のなくなること。
先生という専門職もいなくなる。
 
集団を一律に指導する教育はなくなる。
同じ年齢と云えど、
発達段階は人により千差万別、
個性がまるで異なる。
同じ教室で、一人の先生が、多くの子どもを
一緒に教えるのは教育といえない。
 
分かる子どもと、付いていけない子ども、
できる子と、落ちこぼれを、
選別するだけ。
要するに、
前の時代、頻発した、
いじめや校内暴力などの出来事は、
学校という制度自体が、
病根になっていた。
 
学校は教育に不要というよりも、
教育とは全く違う目的で作られたものだ。
教室で一律に教えるのは、
先生に従順で面従腹背な子どもを量産するだけ。

悪く云えば、反社会的人間を養成するようなもの。
個性も違い、発達も違う
同年齢の子どもを一斉授業で教えるという、
学校制度は、
子どもたちの個性や発達をゆがめる悪い効果しかない。
 
未来の教育には、
学校という施設はない。
子どもたちを教える役目は、
その道に優れた大人が担当する。
 
子どもは4歳くらいになれば、
地域社会が提供する様々な塾に
好きなように通うことができる。
音楽が好きな子どもは
そういう塾を選べばいい。
塾の指導者は各分野で経験ある大人。
老後のボランティアか、または有償の場合は地域社会から報酬が出る。
技能によれば、一対一の指導もある。
集団を教える場合は、異年齢集団が基本。
集団の中で技能の進んだ子が、新参者を教える。
 
子どもたちひとり一人にかかわる大人は
基本的に複数が登録される。
その中の一人は、担当の子が成人するまで
一貫して、その子の成長を見守る責務を負う。
 
子どもの個性は、多様でとらえがたい。
だからこそ、個々別々にメニューを用意しないといけない。
教育の根本原則。
 
教育は生涯つづく。
多くの大人は年取ると、経験や技能を伝える側に回っていく。
例えば、70歳で、数学を志す人がいれば、
70から学び始める訳だから、どこかの塾に入るだろう。
70歳の人が、10代と同じ机で勉強する。
それこそ、生涯教育の見本のようなもの。
 
つづく