まだ現役(診療放射線技師)の頃、

職場の先輩に心理カウンセラーの男性(私より年長)がいた。

元中学校校長で退職後に資格を取得。

看護学校でも教えていたベテラン。

 

その人は、

「死んだらオワリ」と言っていた。

 

病むこころの相手をする専門職の人が、

平気でそんな言い方ができると、私は不思議でならなかった。

 

死んだらオワリ、というのは死ぬ当人から見た価値判断。

死ぬのは、もちろん、当人であるが、

この世は、当人ひとりで成り立つわけではない。

 

たった一人のことなど、

大した問題ではない。

石ころのようとも云える。

 

その人が死ぬことは、

それ以外の人々や生きものにとって、

ほとんど、意味がない。

 

「死んだらオワリ」は本人だけの見方。

 

世界の現実から見れば、

その人が死んで、じゃまものがひとり死んで、

ここからまた、本当の世界がはじまる。

という方が、真実に近い。

 

「死んだらオワリ「」とは、

なんと傲慢な見識だろう。

自分だけが大切で、他はどうでもいい。という

思いあがった考えに近いだろう。

こんな見識で、こころの病を見ているのでは、

患者はかわいそうだと、その頃の私は感じていた。

 

人は死ぬが、

そのこと自体は大したことではない。

悲しむ人がいたとしても、それだけ。

 

イヤ、この俺は、大した人間、世界全体の損失。

皆がこぞって喪失を嘆くべきと思うのは、当人の勝手だが。

 

「死んだらオワリ」というような愚かなことは言わない方がいい。

こころの中で思うのは勝手だが。

自己中心で生きているというのが、バレてしまう。

 

ただし、ガン末期や重度障害者や重病の人は、

堂々と我がままで自己中が許される。当然。

 

人の死、世界は、そんな些細なことに拘泥してくれない。

人は、皆、誰も彼もすべて、ちっぽけ。

悩み多く、弱く、はかない生きもの。

 

それが、死んだとしても、それだけ。

決して、オワリではない。

 

次の世代が生きる。

世界は続いていく。

 

次に来る世代のために、

いくらかでも残すことを考える。

それが、ちっぽけな人の終わり方だと思う。