現実とは何か?

このテーマは簡単そうで、難しい。

 

現実というのは、端的に言って、

人が外界を感知するために5感でとらえた総体と云える。

 

5感の中で、一番有力なのは、触覚でしょう。

人の場合、全身に隙間なく何層にも密集している。

内部感覚は外部感覚よりも情報量が多いかもしれない。

現実は、肌で感じる感覚だろう。例えば「痛い」。

 

言語は、5感と発声器官が連携したもの。

いい加減な道具なので、ものごとを正確につかむには頼りない。

 

数だけは違う。

数の前提は、全ての1は同じということ。

1という数に個性を認めない。

これは、電子や光など、無個性のものを扱うにはとても有効。

 

言語は、数学ほど厳密ではない。

同じ単語なのに、使う人によって意味が異なる。

言葉が内包する世界が人により違う。

 

だから、人の間の言語コミュニケーションでは、

どうしても、誤解や解釈の相違が避けられない。

つまり、完全な一致には至れない。

だいたい通じれば、言葉の役目は果たしていると言えるが。

 

人は、あいまいな言葉を使って、現実をとらえる。

言葉の使い方、世界の見え方や感じ方が、人によって非常に異なる。

その人特有の感性や知性が作り出すのが現実の世界。

その人だけの固有の世界。

 

人の現実理解は、ありのままの現実から遠く離れてフィクションに近くなる。

つまり、現実の正確な複製や模写は人の能力を超えている。

全ての人が抱いているのは、歪められた世界像。

たぶん、現実世界のある面だけを見ているのだろう。

 

人は、言葉を使い、世界を描写できるだろうか。

勿論、できない。

では、カメラを使えば、世界を映せるだろうか。

カメラが写すのは、人がある視点で加工したもの。

そしてカメラ自体が感じないものは映らない。

 

最近の科学で、別次元の可能性が暗示されている。

3次元を超える情報は、人に感じる能力がない。

 

一生を費やし、ひとりの異性を知ろうとしても、

限界にぶち当たるのが人間。

人の感性では、ひとりの他人さえ謎のままで終わる。

たぶん、人は、一番親しいはずの自分のことでさえも、

謎もままで死を迎えるしかないのだろう。

 

死が怖いと人は言うが、

そもそも死が何であるのか、人は知りようがないのだが。