今読んでいる本は、「続新周南風土記」小川宣著
明治初期の郷土の偉人たち。
水井文吉。
明治元年、市街地から約10Km離れた四熊に生誕。
生家は貧しい農家。
幼児の頃から文字に関心がある。
6歳で小学入学。約2Kmを歩いて通学。
読みたい本があると、借りて写し製本する。
10歳のとき、成績抜群なので県から褒美(筆墨料10銭)
11歳で卒業と同時に、小学校の先生となる。
勤務が終わると、約5Km歩き。徳山の市街地へ。
師について深夜まで勉強。
夜は師の家に泊まり、
翌日は、勤務に就く。という日課。
文吉の授業内容は評判良く、
たまたま訪れた山口師範の監督訓導の目にとまり、
山口師範への入学を勧められる。
早速、父にお願いするが、許されず。
父は文吉を百姓にするつもり。
文吉は末っ子で長男だった。
17歳のとき、県から優れた授業内容に対して褒美(書籍)。
ようやく、親に許され、山口師範に入学。
入学した当時の風貌があまりに異様で
皆が驚いたという記録が残る。
外見に無頓着で乞食のようなふうたいだったのだろう。
しかし、成績は抜群、すぐに皆は敬服するようになったという。
特に、数学、地理、歴史、漢詩(自作の詩が残っている)が得意。
18歳のとき、父(享年67歳)が亡くなり。
自宅は、年老いた母一人になる。
師範学校を止める決心。
校長や周囲の人々は卒業までいることを勧めたが。
学資のこともあり、退学する。
(資金援助を申し出る人がいなかったのか、それとも
文吉が自立の精神を貫いたのか)
郷里に帰り3ケ月して再び小学校の教職へ。
19歳のとき、1ケ月ほど、東京で勉学している。
20歳で、江田島海軍兵学校の教務部に採用される。
この頃、職務の余暇に、外国人教師について英語を学ぶ。
その他、解析幾何、微積、力学、心理学、倫理、地理、歴史を研究。
23歳から、ドイツ語、フランス語も学ぶ。
校内のある人は「麒麟児」と呼んで、尊敬したという。
26歳で海軍兵学校をやめて上京。
もっと深く勉強したいという多年の願いを果たす。
昼は学校の先生。
暇さえあれば、上野図書館。
学問上の意見を、哲学、歴史、文学など専門誌に寄稿している。
この頃、文部大臣からドイツ語の哲学書を数冊贈られている。
27歳で、海軍軍令部に奉職、編集課などに勤務。
勤めながら勉学。
28歳で、文部省の検定試験に合格、教師免状取得。
科目は歴史で、師範学校、中学校、高等女学校に通用。
山口中学校に赴任し、体操以外の科目を何でも教えたようだ。
文吉は日頃、口数少ないが、教えるときは雄弁。
時におもしろい話をした、生徒たちの評判は非常に良い。
授業には書籍なしで臨んだという。
また、生徒たちには、いつも笑顔で接し、
不心得の者がいても、
もの柔らかに諫めていたという。
文吉の生活信条は、外見にとらわれることなく、
ひたすら勉学に専心。
そして親孝行。
親のいる間は、妻は迎えないと決めていた。
30歳で福岡の修猷館に。
どうしてもという強い招へいを断ることができなく。
山口中学校を去る日、学期試験の最中、そして雨降りにかかわらず、
御堀村まで多くの生徒が見送った。
こんな光景は、中学校始まって以来のことだったという。
文吉の楽しみは、書物を懐にして野山を散策し、
思いのままに詩や歌をつくること。
運動をかねて、よく野山に行っていたという。
修猷館に勤めて2年、夏前に体調が悪くなる。
7月初め、肺結核と診断される。
暑中休暇で郷里に帰省。
静養して良くならない。10月に死期を悟る。
人生途上で世話になった20数名に手紙をしたためる。
明治33年10月20日死去。享年32歳。
多くの人々に惜しまれての死であったという。
文吉さんの一生は、学に志す、ひたむきな生き方。
思い通りの生き方であったのだろう。
私の友人に植村泰男君がいる。
32歳で突然死。
社会改革という志しに殉じた生き方だった。
私の母は軽い認知症だったが、
晩年、私も顔をみるたびに口にしていた。
「恥も知らずに生きている」と。
若くして亡くなったこういう方々を考えると、
私も、恥も知らずに長生きしているのかな、と思わずにいられない。