昨日見た雑誌に、
こころのバリアーについて書いてあった。
障害者のこころのバリアー。
健常者が障害者に対して、どう接していいのか戸惑う。
普通の人と違うという固定観念・バリアーがある。
対し方が分からないから避けるようになる。
一方、
障害者の方も、バリアーがある。
今まで、普通に付き合ってもらえなかったので、
また今度も、自分を差別・排除されると、自然と構えるようになる。
普通の人がしないような過分な要求や注文すると嫌われるのではないか。
悪いことを予期して、我慢する方が楽。となる。
バリアーは両方にある。
高等教育を受け、官庁や大企業で働く人たちは、
人生の過程で障害者と身近に付き合う経験がない人が多い。
従って、障害者に対する理解が浅くなる。
学校の教師は、当然、そういう教育を受けているだろうと、
普通の人は思う。
子どもたちには、いろいろな特徴をもった子どもがいる。
しかし、現実の学校で、障害者に理解のある教師はとても少ない。
生まれたばかりの子どもたちは、
こころのバリアーはない。
こころが育っていない。
誰とでも親しくなれる。
こころのバリアーは、
年取るにつれて、だんだんと固くなっていく。
自己防衛の仕組みが強固に作られていく。
偉くなったり、有名になったりすると、
バリアーはますます発達する。
私も老化のせいか、
バリアーが相当に頑固になっている。
鎧兜に殻を重ねて重装備。
付き合う人を根拠なく選別する。
一目見て、自己都合で判断する。
こうして、ボケていくのかと思う。
子どもたちのように、人懐っこくなりたいけど、
身体が動かない。
こころが動かない。
老化には、いいことも多い。
だが、こころが老けるのだけは、
いやだ。
バリアーが厚くなっていくと、
そのうちに、
外界を感じることもできなくなる。
つまり、死。
顔を見ただけで敬遠したりする。
思い込みや偏見のかたまりだ。
人間付き合いを避けるようになる。
こころの老化を防ぐには、
人生で身に着けた、すべての観念、理屈、思い出、実績、
生きる知恵を
捨てればよいのだが。
凡人にはできない。
自分への執着が強いとできない。
自分を捨てる、
ついでに、痛みなどの感覚も捨てる。
それができれば、人間も完成となるのだが。