若い頃、努力すれば、何とかなると思う。

親も先生も異口同音。

 

例えば、受験。

受験の専門家(教師や塾講師など)の助言に従い、

最良と薦められた方法を忠実に実行すれば、

受験は成功の可能性が高い。

 

世の中、だいたいの事柄は、努力が報われる。

努力したかどうかで、評価されることが多い。

 

しかし、努力自体が悪い影響を与える事柄もある。

例えば、吃音が一つの例。

吃音の原因は、各人異なり、誰にも通用する治療法はない。

ある人は、発声の仕方を工夫すれば改善される。

ある人は、むしろ、発声を気にしない方がいいかもしれない。

努力は、緊張を高めて悪循環に陥る。

私は若い頃、この悪循環にはまり込んだ。

 

要するに、大まかにみて良いだろうという方法はあるが、

具体的なレシピ(努力の細部)となると、ひとり一人違うので

自分で探し出すしかない。

 

人の健康法も似ている。

体質も生活も感じ方も違うから、健康法は千差万別。

身体にいいと言われる方法も、体質に合わないことがある。

 

世の中を見ていると、

努力が報われるのは、

とても限られている。

 

例えば、理想の結婚や、天職の発見など、

どんなに努力しても、見つけようがないだろう。

元々そんなものがあるかどうかも不明。

 

ところが、学校や職場では、

努力、努力、と異常に持ち上げられる。

 

私も老年となり、人生を振り返ってみると。

努力で成し遂げたと思うことが、とても少ない。

 

ただ、運が良かった。

次に、好きなことをやって、それが良かった。

努力とは無関係のことが多い。

 

身体が思うように動かなくなる老年。

毎日が奇跡のような幸運を感じる。

自分が生きているのは、まさに幸運だと、

強く実感する。

 

たぶん、幸運は誰にもやってくる。

それに気付かない人が多い。

気付くためには、こころや感性を開くことが肝心だが。

その方法は、誰も教えてくれない。

 

努力というと、

これだけやったのだから、当然と。

自己欺瞞に陥りやすい。

幸運だと思えば、

自分が偉いという気持ちはなくなる。

そこがいいのかもしれない。