死を怖がる人が多い。

なぜ、死が怖いのか。

意識がなくなるからだろう。

自分というものがいなくなる。

 

意識はどのように誕生するのか。

大枠で理解するのは簡単。

両親からの遺伝子が結合して胚となり、

体性感覚と五感からの情報が脳と全身に蓄積される。

成長につれて、その蓄積は整理されていく。

ただし、大部分の情報は未整理のままであるが。

その全体像は、当人にも分からない。

言語習得とともに、情報の一部は言語化され整理される。

意識は、これら全てが総合されたものから生じる。

 

意識は、統一したものではない。

様々な階層があり、分岐があり、

記憶の部屋は無数にあり、全体像は不明。

 

従って、感じ方も多様に変化する。

人格や性格は固定したものではない。

 

どんな人も、

自己同一性という意識の習慣を身に着ける。

つまり、昨日の私と今日の私は同じであるという信念のようなもの。

実際、昨日と今日の私は、かなり違うのだが。

 

私の例でいえば、

高校二年のとき、私はある啓示を受けた。

単なるヒラメキ。

人というのは、皆、ひとり残らず、「自分が一番かわいい」と思っている。

それが、分かったのだ。

 

自分のやり方が正しいと、皆、思っている。

やり方は、人によって違うが、

自分が正しいという考えは、皆が等しくもっている。

 

もし、世界に70億の正しさがあるなら、

では、正しさの基準はどこにあるのか。

仮説は実験で試されるが、

70億の正しさは試しようがない。

 

無数の正しさをすり合わせて、より正しい一時的同意をつくるしか、

正しいものに近ずく方法はない。

 

絶対的な正しさは、どこにもない。

 

私のヒラメキは、こんな感じ。

この考えが私の頭に入ってから、

私のものの見方は大いに変わった。

 

つまり、昨日の自分ではなくなった。

 

人間はとても変化していく。

二十歳の自分と七一歳の自分を比べれば、

外見はいくらか似ているが、

中身には、ほぼ、共通性はない、と言える。

 

自己同一性は、人間の空想のようなもの。

真実の実態ではない。

 

だから、

人は、毎時毎瞬に死んでいるともいえる。

人は、いくらでも、変わりうる。

よい人にもなれる。

悪い人にもなれる。

 

昨日は聖人で、

今日は極悪人もありえる。

 

どんな人でも、

脳内を探れば、多重人格。

普通の人は、都合の悪いところを隠すのだが。

 

人の意識は変わる。

自己同一性は、幻想にすぎない。

 

じゃあ何故、人は死を怖がる。

人は一分一秒変化している。

それを実感として体験できるのが、

認知症の進行だろうか。

 

死は、整理された記憶の倉庫が壊れ、

自分というまとまりも壊れること。

記憶の倉庫は、

時間とともに、風化して壊れる。

 

自己同一性は、

人間社会の決まり事。

年月で名前が変わっては、社会は維持できないからだ。

 

しかし、実態としての人は、

毎瞬に死んでいると同じ。

同じ人間ではないからだ。

 

人は生きている間に

死を何度も経験して、違う人間になっていく。

それが人の人生。

 

そして、ついに、

違う人間に変わることに、くたびれて、

不変を求めるようになる。

それが、死。

 

自分なるものは、意識が作り出した幻想。

もともと、存在しない。

(意識は自分という概念が大好きだが)

従って、たましい。

きちんと固定した不変の魂も存在しない。